教育研究者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 08:19 UTC 版)
兼任でも多くの大学に出講し、1927年4月、旧制第一高等学校講師(-1928年3月)、1929年4月、二松学舎専門学校教授(-1934年3月)、同年12月、大正大学教授(-1944年3月)、1930年12月、神奈川県女子師範学校教授(-1932年3月)。1932年4月、東京女子専門学校(のちの東京女子大学)(-1939年3月)、1934年4月、東京家政学院、1936年4月、折口信夫に招かれて慶應義塾大学でも教鞭を執る。1936年4月、帝国女子専門学校(のちの相模女子大学)(-1940年3月)、1941年4月、津田英学塾(-1944年3月)、1949年4月、早稲田大学、1950年4月、東洋大学、各講師(兼任)。1946年、日本女子専門学校(のちの昭和女子大学)兼任教授、1949年4月、昭和女子大学日本文学科科長、1951年4月、昭和女子大学評議員、1956年4月、立教大学教授(兼任)。 東京大学在任中の処遇については、国史学科教授であった坂本太郎が、池田が長く国文学科助教授でありながら教授に昇任しなかった事情について、当時の関係者全員の没後に背景を書き残している。それによると、島津久基の死去後、久松潜一が助教授であった池田を後任の教授に推したが、時枝誠記が「強硬な反対論をとなえ」、麻生磯次が後任に招かれたのだという。結局、池田は久松の定年退職によってその後任となるまで教授に昇任できなかった。
※この「教育研究者として」の解説は、「池田亀鑑」の解説の一部です。
「教育研究者として」を含む「池田亀鑑」の記事については、「池田亀鑑」の概要を参照ください。
- 教育研究者としてのページへのリンク