にっき‐ぶんがく【日記文学】
日記文学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:39 UTC 版)
少女時代から、名のみ聞く『源氏物語』に限りない憧れを抱いて成人した菅原孝標女の日記『更級日記』が有名である。康平3年(1060年)頃の成立とみられ、関東から京への旅、『源氏物語』とのめぐり会い、結婚から晩年に至るまでを記した生涯の回想日記である。『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母は、彼女の叔母にあたり、その影響が指摘されている。 他の日記には、女流作家による『成尋阿闍梨母集』(成尋阿闍梨母)、『讃岐典侍日記』(藤原長子)、男性による『厳島御幸記』(源通親)がある。
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日記文学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 04:12 UTC 版)
日記が書かれる主な契機の一つとして、旅の記録がある(これが書物にまとめられると紀行文となる)。仕事であれ、私的な所用であれ、戦争への従軍であれ、特別な出来事の内容、見聞、心覚えを記したものとして日記は書かれた。古代ローマのカエサルがガリア征服の経過を記した『ガリア戦記』がその有名な例である。 日本でも、遣唐使の随行日誌など、旅の日記(紀行)の伝統は古く、円仁の『入唐求法巡礼行記』のように世界的に著名な紀行が、9世紀に生まれている。 平安時代、9世紀末の日本では、国家体制の変化のもと、儀式化した政務のために王朝貴族たちは、外記日記など国家の記録とは別に私的な日記を作成し始める。この貴族たちの日記作成の流行をもとに、女性たちの回想録的な日記文学が生まれてきたと考えるべきであろう。その背景には、仮名文学の成熟、浄土教の発展による内省的な思考の深化などが認められる。紀貫之の『土佐日記』を始めとして『蜻蛉日記』、『紫式部日記』、『和泉式部日記』、『更級日記』、『讃岐典侍日記』などの平安時代の女流日記や『弁内侍日記』、『十六夜日記』などがその代表例である。 男性貴族の日記の多くは漢文で書かれており、歴史学の用語として漢文日記とも呼ばれるが、近年これら儀式のための先例のプールやマニュアルとして作成された日記を「王朝日記」として新たに概念化する学説も出されている(参考文献;松薗2006)。 中世までは、王朝貴族(公家)・僧侶にほぼ限られていた日記も、中世末から近世に入ると、階層的に多様化し、量的にも格段に増加していく。 近代に入ると、西洋の個人主義などの影響を受け、プライベートの個人的秘密を吐露するために書かれたものも出てくる。石川啄木の『ローマ字日記』などである。実体は私小説、またはフィクションであっても、表現手段として日記の形式を借りることもある。 今日では、Weblog(ブログ)やインターネット上のレンタル日記サイトにおいて、不特定多数に読んで貰うことを前提として、多くの公開日記が書かれている。
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