平安時代から鎌倉時代
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「中村氏 (下野国)」の記事における「平安時代から鎌倉時代」の解説
下野国の中村荘は元来藤原氏宗家の管理地であったが源義朝が下野守に任じられると義朝の勢力下となっていた。保元元年(1156年)に保元の乱が起こると都において高松院の蔵人であった藤原朝宗は下野国芳賀郡中村荘に下向し中村八幡宮の南東に中村城を築いて中村荘を管理し朝宗は中村太郎と称し後に入道して念西と称したとされている。 治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると母方の従弟という関係もあり麾下に参じた。文治5年(1189年)の奥州合戦においては念西の4人の息子、為宗、為重(宗村)、資綱、為家が前衛として出陣、藤原泰衡軍の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕りとした。この功により激戦地阿津賀志山がある陸奥国伊達郡を賜り地頭となった。 念西は領地の仕置きを行い、長男の為宗は常陸国伊佐(伊佐城)、次男の為重(宗村)は陸奥国伊達郡、三男の資綱は下野国中村(中村城)を拝領した。 下野国中村(中村城)を拝領した資綱はそのほとんどが鎌倉で起居していた。念西は奥州合戦以前に養子として迎え入れていた義宗(朝定)を常陸冠者為宗に託し義宗(朝定)が成人となると中村城を継がせた。義宗(朝定)は治水に励み、下野衣川(現在の鬼怒川)よりの水路を勝瓜口(現在の栃木県真岡市勝瓜近辺)より領内への用水路開拓を自らの治世に尽くした。中村領民は朝定が亡くなった後に中村城近くに朝定を慕い朝定を祀った『中村大明神』を建立している。 承元3年、源実朝が常陸冠者為宗に長世保(現在の宮城県松山町)の拝領地の開墾を命じた際、義宗(朝定)は伊佐為家の預かりとされ鎌倉幕府の監視下に置かれた。そのため承元3年以降、義宗(朝定)は下野国中村への帰還が生涯叶うことはなかった。中村氏が旧領を取り戻すのは鎌倉幕府が滅亡した後の中村経長の代まで待つことになる。 中村朝定の源義経の遺児伝承 中村朝定、幼名は千歳丸、経若丸といい、その出自については青森県弘前市新寺町の圓明寺(円明寺)や栃木県真岡市の遍照寺、中村八幡宮等の縁起、古誌に源義経の遺児経若(千歳丸)であるとし、藤原秀衡の命を受けた常陸坊海尊が経若を念西(朝宗)に託し養子にしたとの伝承がある。 詳細は「中村朝定」を参照
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平安時代 から鎌倉時代
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平安時代から同族(海野広道の弟から始まる)根津氏、望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、東信濃の有力豪族として栄えた。資料の初見は『保元物語』で、源義朝揮下の武士に「宇野太郎(海野太郎)」の名が見える。平家物語には源義仲の侍大将として広道の子の海野幸親・海野幸広親子の名が出てくるが、共に戦死を遂げている。 源義仲の嫡男・源義高の身代わりとなった忠勤を源頼朝に賞賛され、側近に取り立てられた幸親の三男・海野幸氏が家督を継いで、海野氏は滅亡を免れる。幸氏は武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されたと伝えられるほどの弓の名手で、『吾妻鏡』に上野国の所領を巡って甲斐国守護の武田氏に勝訴した記述が残されており、この時期に信濃東部(小県郡・佐久郡など)から上野西部(『吾妻郡』)に勢力を拡大した事がわかる。同じく『吾妻鏡』には和田合戦で海野左近なる者が幕府方として討死したとされる。建長5年(1253年)正月からは海野助氏(資氏)が幕府の御的始の射手、文永2年(1264年)正月からは海野泰信が幕府の御弓始の射手を務めている。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮の造営費用が全国の御家人に求められると、信濃国に住む海野左衛門入道跡が7貫文を納めた。
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