平安時代と江戸時代の盗掘事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 21:54 UTC 版)
「佐紀石塚山古墳」の記事における「平安時代と江戸時代の盗掘事件」の解説
扶桑略記には1063年(康平6年)、興福寺僧の静範らが成務天皇陵の副葬品を盗掘し、事件が露見し連座した16人が流刑になった事件を記している。これは、御陵に関する記録としては珍しいものである。また、時代が下って1844年(天保15年)と1848年(嘉永元年)にも盗掘を受け、石棺から多数の勾玉が持ち出され、奈良奉行所が取り調べた記録があるという。奈良奉行所の記録によると、同じ時期に付近の五社神古墳や宝来山古墳も盗掘に受け、付近の住人ら12名が佐紀石塚山古墳を含めた3箇所の古墳の盗掘犯として捕らえられた。首謀者とみられる4人は獄死し、これら4名の遺体は塩詰にして奈良市中を引き回しの上、磔に処せられたという。幕末の公武合体推進のために陵墓の整備を進めていた幕府が、見せしめとして犯人を厳罰に処したことが窺える。
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