平安時代から鎌倉時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:29 UTC 版)
小槻氏は中世より太政官弁官局において諸記録を司り、大夫史(五位の左大史)と算博士を世襲した。代々弁官局を取り仕切る官務職に就いたため官務家と呼ばれた。少納言局においても、同様に取り仕切る「局務」が清原氏・中原氏(のち中原氏のみ)の中から現れ、官務と局務は合わせて「両局」と呼ばれ、地下家の筆頭として太政官の下級官吏を統率した。 平安時代、小槻政重の子の師経・永業・隆職らは3名とも官務を務めたが、それ以後は永業流が算博士を、隆職流が官務を相続することと決められた。しかし文治元年(1185年)官務・隆職が後白河院と源義経による源頼朝追討の院宣に関わったとして頼朝に解官され、官務は永業の子の広房が継ぐこととなった。けれども建久2年(1191年)に後白河院の指示で隆職が復職、広房は官務の地位を失う。その後隆職が危篤に陥ると広房は隆職の子・国宗と後継を争ったが敗れ、官務には国宗が就いた。国宗の死去後次の官務に広房の孫・季継が就くと、季継は朝廷の権力者九条道家と深い関わりを持って21年間に渡って在職し、隆職流に押されがちだった広房流の地位を向上した。それ以後小槻氏は隆職流と広房流とに分かれ、算博士は広房流が相続するものの官務は両流が対等の立場から争い合うこととなる。また、他の役職としても、壬生家は修理東大寺大仏長官(または造東大寺次官)・主殿頭を継承した。
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