平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師の神格化とは? わかりやすく解説

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平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師の神格化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 00:36 UTC 版)

陰陽師」の記事における「平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師の神格化」の解説

延暦4年785年)の藤原種継暗殺事件以降身辺被災弔事頻発したために怨霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京へ遷都端を発してにわかに朝廷中心に怨霊鎮める御霊信仰広まり悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵求め風潮強くなり、これを背景に、古神道加え有神論的な星辰信仰霊符呪術のような道教色の強い呪術注目されていった讖緯説讖緯思想)・道教仏教特に密教的な要素併せ持った呪禁道管掌医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮呪禁博士呪禁師らが、陰陽家であった中臣藤原鎌足の代に廃止され陰陽寮機構統合されるなどして、陰陽道道教または仏教(特に奈良・平安時代の交(8世紀末)に伝わった密教)の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道よばれる占星術から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格見せ始め要素持っていたが、御霊信仰時勢迎えにあたって更なる多様性帯びることとなった北家藤原氏朝廷における権力拡大確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し相手勢力への失脚狙った讒言誹謗中傷陰陽道利用される機会散見されるようになった仁明天皇文徳天皇時代9世紀中半)に藤原良房台頭するとこの傾向著しくなり、宇多天皇は自ら易学周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら『九条殿遺誡』や『九条年中行事』を著して多く陰陽思想にもとづく禁忌作法組み入れた手引書示したほどであった。この環境により、滋岳川人弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的陰陽師輩出したほか、漢文学者三善清行唱える讖緯説による災異改元取り入れられ延喜元年901年以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化が更に進んだあわせて、師輔や清行など陰陽寮の外にある人物天文陰陽易学暦学習得していたということ自体律令定めた陰陽諸道陰陽寮門外不出国家機密政策この頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。 やがて平安時代中期以降に、摂関政治荘園制蔓延して律令体制が更に緩むと、堂々と律令の禁を破って正式な陰陽寮所属官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い場合によっては敵対者呪殺まで請け負うような風習横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮流される者が続出し、そのふるまいは本来律令定め職掌からはるかにかけ離れ方位や星巡り吉凶恣意的吹き込むことによって天皇皇族や、公卿公家諸家私生活における行動管理にまで入り込み朝廷中核精神世界支配し始めて次第官制に基づく正規業務越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。同時期に天文道陰陽道暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行・保憲父子ならびにその弟子である安倍晴明輩出し従来一般的に出世従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼得た。そして賀茂保憲が、その嫡子光栄暦道を、弟子安倍晴明天文道あまねく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内世襲秘伝秘術化したため、安倍家天文道極めて独特の災異瑞祥説く性格帯び賀茂家の暦道純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道色彩の強いものに独特の変化をとげていったこのため賀茂安倍両家からのみ陰陽師輩出されることとなり、晴明孫安倍章親が陰陽頭就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者天文博士常時任命する方針表しその後両家が本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位をほぼ独占し更にはその実態を陰陽師しながら陰陽寮職掌越えて他の更に上位官職に付くようになる至って官制としての陰陽寮は完全に形骸化し陰陽師朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術祭祀色合いが濃いカリスマ的精神的支配者となり、その威勢振るうようになっていった。特に、平安時代中期以降における朝廷中枢の為政者に対しては、昌泰4年同年延喜改暦901年)の左大臣藤原時平による菅原道真右大臣職から大宰権帥左遷した事件昌泰の変)に深く関与したことをはじめとして政治運営人事決定から天皇の譲位に至るまで多大な影響及ぼしたまた、本来律令禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では道摩法師蘆屋道満)などをはじめとする民間陰陽師多数輩出した平安時代中・後期11世紀から12世紀)を通じて陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人多数輩出され陰陽頭は常に安倍氏世襲し、陰陽助賀茂氏世襲するという形態定着した平安時代末期治承・寿永の乱源平合戦)のころには安倍晴明の子吉平玄孫にあたる泰親が正四位上その子の季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、鎌倉時代末期両統迭立呼応した家内騒動その後南北朝時代混乱によってその勢力一時衰退した

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