昌泰の変
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昌泰の変(しょうたいのへん)は、昌泰4年1月25日(901年2月16日)、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件[1]。
概要
一般的にその背景には時平と道真の確執が主な理由とされるが、それだけが理由ではない。
宇多上皇は醍醐天皇に譲位した後も、『寛平御遺誡』という君主の心構えを新帝に説くばかりでなく、道真を始め源善・中納言源希・蔵人頭平季長・侍従藤原忠平といったいわゆる「寛平の治」の推進役だった一種の側近集団を新帝の周囲に配置して新帝の政策を主導しようと図った。これに対して時平や大納言源光ら上級貴族のみならず、藤原清貫・藤原菅根・三善清行ら中下級貴族を含めた激しい反発があったともいわれる。
その一方で醍醐天皇の即位当時、仁明天皇の嫡流子孫である貞辰親王(清和天皇皇子)や元良親王(陽成天皇皇子)らを皇位継承者に擁立する動きに強い警戒感を抱いていた宇多法皇は自分の同母妹為子内親王を醍醐天皇の妃として男子出生を願ったが内親王は早世した。そこで醍醐天皇は藤原時平と相談してその妹である藤原穏子の入内を進めた。だが、宇多法皇はこれを時平が外戚の地位を狙うものとして強く反発した[注釈 1]。阿衡事件(阿衡の紛議)の苦い経験から、藤原氏腹の皇子の誕生を望まなかった宇多上皇と藤原氏との連携によって政権の安定を図る醍醐天皇の路線対立が明確になっていった[注釈 2]。
やがて、宇多法皇が道真の娘婿でもある斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説[注釈 3]が流れると、宇多上皇や道真の政治手法に密かに不満を抱いていた醍醐天皇と藤原時平、藤原菅根(折りしも病死した平季長の後任の蔵人頭に就任していた)らが政治の主導権を奪還せんとしたのである。1月25日、突如醍醐天皇の宣命によって道真は大宰員外帥に降格された[注釈 4]。
この政変で道真・善(出雲権守に左遷)を排斥、変の翌年に連座を免れた源希も病死、同じく藤原忠平も政治の中枢から事実上追われることになり、醍醐天皇・藤原時平派の政治的勝利に終わった。直後に醍醐天皇は穏子を女御に格上げして事実上の正妃として遇し、その所生の皇子による直系継承によって藤原氏の支持を得た皇位継承を図ることとなる。これは、宇多上皇が進めてきた藤原氏の抑制方針を大きく変えるものであった。天皇や時平は「延喜の治」と呼ばれる自らが主導する政治改革を目指すものの、変からわずか8年後に時平が急死、続いて醍醐天皇も病気がちとなり、政治権力の中心は再度宇多法皇と藤原忠平の手中に帰する事になった。
この政変を巡っては、道真の死後に起きた天変地異が道真の怨霊の仕業と考えられて(→清涼殿落雷事件)、道真の名誉回復とともに政変に関する資料が廃棄されたと考えられていること、また醍醐天皇の治世が理想的な親政として評価された余りに、皇位継承を巡って宇多法皇と醍醐天皇の間に温度差があったことなどが軽視されたことなどにより、真相については十分に明らかになっていない面が多い。
昌泰の変直後の延喜元年(901年)9月に、道真と並んでこの時代の知の双璧と呼ばれ、ただし栄達はしていなかった学者の大蔵善行が、門下生たちから盛大に七十の賀を祝福された。この”門下生たち”こそが藤原時平派閥であり、大蔵一門と出世を争い、変で追放された人々は菅原道真門下生である。すなわち、大蔵一門と菅原一門の対立という図式も成立する。
変で処罰された人物
『公卿補任』、『政事要略』による[3]。
家系 | 氏名 | 官位など | 処罰内容 |
---|---|---|---|
菅原氏 | 菅原道真 | 正三位・右大臣 | 大宰員外帥に左遷 |
嵯峨源氏 | 源善 | 従四位下・右近衛中将 | 出雲権守に左遷 |
藤原南家 | 藤原菅根 | 従五位上・左近衛少将 | 大宰少弐に左遷。2月に蔵人頭兼式部少輔に再任 |
その他 | 大春日晴蔭 | 右大史 | 三河掾に左遷 |
藤原氏 | 藤原諸明 | 遠江掾に左遷 | |
菅原氏 | 菅原景行 | 式部丞 | 駿河権介に左遷 |
菅原氏 | 菅原兼茂 | 右衛門尉 | 飛騨権掾に左遷 |
嵯峨源氏 | 源厳 | 能登権掾に左遷 | |
仁明源氏 | 源敏相 | 但馬権守に左遷 | |
その他 | 山口高利 | 右馬属 | 伯耆権目に左遷 |
その他 | 和気貞世 | 少納言 | 美作守へ左遷 |
その他 | 良岑貞成 | 長門権掾に左遷 | |
源氏 | 源兼則 | 前摂津守 | 阿波権守に左遷 |
菅原氏 | 菅原高視 | 大学頭 | 土佐介に左遷 |
脚注
注釈
- ^ 藤原忠平の子・藤原師輔の日記『九暦』天暦4年6月15日条には、入内は為子の生前から時平と天皇の間で進められていたが、宇多法皇が穏子の入内に強く反発して為子の没後まで入内が認められず、その子保明親王の立太子にも強く反対したという。師輔は宇多法皇側近の忠平の子で、穏子の庇護を受けていたことから、穏子を巡る事情に通じていた可能性が高い[2]。
- ^ 宇多法皇自身も時平の妹の1人である藤原温子を女御としているが、疎遠であったと言われている。なお、醍醐天皇の外祖父藤原高藤は藤原基経の従兄弟であるが、その父が早世していたために官位に恵まれず、病死直前に天皇の外祖父という理由で内大臣に任じられたという経歴のために政治的な影響力は無かった。
- ^ これについては道真の冤罪説が強いが、この事件当時の醍醐天皇には穏子所生を含めて男子はいなかったことが注目される。宇多法皇が貞辰親王や元良親王らを牽制するために、早い時期に次期皇位継承者を定めようとすれば当時男子のいなかった醍醐の弟の中で最年長者(第二皇子斉中親王は既に薨去)である第三皇子斉世親王の立太子が有力視され、しかも『寛平御遺誡』には宇多上皇自らが醍醐天皇の立太子の際に道真にのみ意見を求めたことを記している。宇多法皇が斉世親王を立太子して皇位継承の安定化を図った場合、当然自己の子孫への直系継承を望む醍醐天皇とは対立が生じることになる(天皇側からすれば、同時に進行していた上皇による藤原穏子の入内妨害は事実上の皇子誕生の阻止にもつながる)。この対立が続けば宇多上皇が廃立を計画する動機にもなり、たとえ道真自身に斉世親王擁立の考えが無かったとしても、醍醐天皇からその疑惑を持たれる可能性は十分にあったのである。なお、斉世親王は道真左遷直後の2月2日に出家している[2]。
- ^ 『政事要略』所収のこの日の宣命において、醍醐天皇は道真が寒門から大臣に上げてもらったにもかかわらず、それに飽き足らず専権の野心を抱いて、宇多法皇を欺き騙して天皇廃立を企んで親子の慈しみを離間させ、兄弟愛を激波(破壊)したと非難している。醍醐天皇は父への非難は避けているものの、親子兄弟間の確執が実際にあったことを認めている。
出典
- ^ “第60代・醍醐天皇の皇位継承と昌泰の変”. WEB歴史街道 (2020年5月18日). 2020年12月29日閲覧。
- ^ a b 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P262-265・288-291)初版は1986年。
- ^ 『政事要略』巻22
参考文献
- 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年) ISBN 978-4-642-02161-6
昌泰の変
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宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。昌泰2年(899年)10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。 詳細は「昌泰の変」を参照 昌泰4年(901年)正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。加えて醍醐が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。それでも晩年には病気がちの醍醐天皇に代わって、実際の政務をみていた可能性もあると考えられている。 延喜元年(昌泰4年を改元)12月13日、宇多は受戒の師を益信として東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる。延喜21年(921年)10月27日に醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている。 延喜13年3月13日(913年4月22日)には後院の亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」を開いた。これは国風文化の盛行の流れを後押しするものとなった。延喜11年(911年)6月15日、亭子院の水閣を開いた時、臣から酒豪を選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。(亭子院酒合戦)。 承平元年7月19日(931年9月3日)に崩御。宝算65。日記に『宇多天皇御記』がある。
※この「昌泰の変」の解説は、「宇多天皇」の解説の一部です。
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