しごう 【諡号】
諡
(諡号 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/10 04:29 UTC 版)
注釈
- ^ これらは史料に諡と明記されているわけではなく実態は不明であり『史記』周本紀で武王が父祖に贈った「文王」「太王」「王季」が明記された最古の諡(謚)である。
- ^ ただし、降伏後、金によって昏徳公という侮蔑的な封号をつけられ、そのままで没している。死後に天水郡王に改封[6]。
- ^ 顕宗天皇は奴隷として隠れた後に皇族の身分を明かしたという伝承に基づく諡号である。
- ^ 諡号には「ヤマトネコ」「タラシヒコ」のように同じ称を持つものがある。例えば、まだ諡号がなかった時代の7代孝霊、8代孝元、9代開化の諸天皇は「ヤマトネコ」の称を、12代景行、13代成務、14代仲哀の諸天皇は「タラシヒコ」の称をもっているが、これらの称はずっと下って7世紀の初めに実在した天皇の諡号にも見られ、後世の諡号を遡って付けた可能性(つまり、実在しなかった天皇を造作したのではないかという疑問)が提示されている。この外には「ワケ」「イリ」の称を共通に持っている天皇のグループがある。これらは同じ王朝を示す称であり、実在した天皇ではないかと推測する説もある。
- ^ 後述するように臣下では三輪子首の先例がある。また『日本書紀』では神功皇后の葬儀の日、追尊して気長足姫尊といったとあるが、実在性が疑われるため一般的には採用されない。
- ^ 後に重祚して48代称徳天皇となる。
- ^ 「聖」と「孝」は唐の多くの皇帝の諡号に使われた文字であり「文武」は上記の通り太宗李世民の諡号に使われている。
- ^ 『藤氏家伝』によると不比等の父・藤原鎌足は太公の著書とされる『六韜』『三略』を愛読したという。
- ^ 『西宮記』には光仁天皇の漢風諡号選定に関する記事があるが、ここでいう「光仁天皇」は現在の光孝天皇と見られ、その経緯は明らかではない。吉川真司は光仁天皇は崩御から100年近く和風諡号しか存在しなかった可能性を指摘した上で、光孝天皇の諡号が何らかの事情で「光仁」から「光孝」に変更された後に漢風諡号が存在していなかった光仁天皇の諡号に転用されたとする説を唱えている[14]
- ^ 『詩経』では殷の天乙も武湯または武王と呼ばれている。ただし武丁や漢の武帝のように初代でない場合もある。
出典
- ^ 鄭樵『通志』巻四十六諡略・序論第三では、当時の南宋の人々が「桀・紂が最悪の諡だ。その次に悪いのが桓・霊だ」といっていることについて「これは誤りである。桀・紂は名であり、諡ではない。桓は経書を見ると、周の武王の果断さと盛徳を称える意味である。詩経に『桓桓たる武王』という詩句があるのをこういう連中は知らないのだろうか。斉の桓公が偉大な人物だったことを知らないのか。霊も悪い意味など無い。」と呆れ果てている。実際、呉の武烈帝孫堅を称える韋昭の漢詩(『宋書』楽志及び『楽府詩集』)で「漢の末、董卓乱す。桓桓たるかな武烈、時運に応じ、義兵を興す。」(後漢末の董卓の乱を平定するため、桓桓たる武烈帝孫堅が立ち上がる)という詩句が存在する。
- ^ 平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論社、2001、P28-36
- ^ 前述の鄭樵『通志』巻四十六諡略・序論第三にある。
- ^ 楚の成王という例のように、最初に成王が霊王という悪謚に与えられたが、成王の遺体の目が閉じなかったので、その代わりに成王というまあまあの美謚に与えられた
- ^ 懐帝は特に無能な皇帝に贈られ、曹操に専横されてほとんど政治的には無能力者だった後漢の献帝は劉備から「愍帝」と諡され、劉備の子、蜀の劉禅は劉淵による追尊で「懐帝」と言われている。
- ^ 金史より。
- ^ 小島毅「国家祭祀における軍神の変質-太公望から関羽へ-『決定版「三国志」考証事典』別冊歴史読本 新人物往来社 1996年(平成8年) ISBN 4404024096[要ページ番号]
- ^ 『帝室制度史』第6巻P728・766-767。
- ^ 藤田覚「天皇号の再興」(『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 第八章)
- ^ 野村朋弘 『諡』p134 中央公論新社2019年 ISBN 978-4-12-005194-4
- ^ a b c 中村元ほか(編)『岩波 仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、422頁。
- ^ 天皇が高僧に贈る「大師号」って何? 平安時代から1000年、授かったのは25人:東京新聞2022年4月9日
- ^ 帝国学士院『帝室制度史』 6巻 652-653
- ^ 吉川真司「後佐保山陵」(初出:『続日本紀研究』331号、続日本紀研究会、2001年/所収:吉川『律令体制史研究』岩波書店、2022年 ISBN 978-4-00-025584-4)2022年、P286-288.
- ^ 森鷗外 1919, p. 181.
- ^ 森鷗外 1919, p. 187-188.
- ^ 森鷗外 1919, p. 181-182.
- ^ 森鷗外 1919, p. 188-189.
- ^ 森鷗外 1919, p. 191-192.
- ^ 『親長卿記』文明3年2月別記(内外書籍『史料大成. 続編 第39』、24-26p)
- ^ 森鷗外 1919, p. 210.
- ^ 森鷗外 1919, p. 208.
- ^ 森鷗外 1919, p. 211-212.
- ^ 潘蕾「孟子の政治思想と『日本書紀』」 2016-03-30 中國古典文學研究 広島大学中国古典文学プロジェクト研究センター、首都師範大学中国詩歌研究中心
- ^ a b c 清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち 朝鮮日報 2007/09/16
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:48 UTC 版)
崩御後に大武皇帝と贈られたが、後に高宗により神堯皇帝に改められ(674年)、続いて玄宗により神堯大聖皇帝(749年)、さらに同じく玄宗により神堯大聖大光孝皇帝(754年)と改称された。
※この「諡号」の解説は、「李淵」の解説の一部です。
「諡号」を含む「李淵」の記事については、「李淵」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 05:58 UTC 版)
和風諡号は、日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 漢風諡号の元明天皇(げんめいてんのう)は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。
※この「諡号」の解説は、「元明天皇」の解説の一部です。
「諡号」を含む「元明天皇」の記事については、「元明天皇」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 21:11 UTC 版)
和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。漢風諡号である天智天皇は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が撰進した。森鴎外は『帝諡考』において、その典拠に『逸周書』世俘解、『淮南子』主術訓、『韓非子』解老篇を候補に挙げている。
※この「諡号」の解説は、「天智天皇」の解説の一部です。
「諡号」を含む「天智天皇」の記事については、「天智天皇」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 13:54 UTC 版)
遺詔には「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」とあったといわれる。唐王朝での諡号はその後も変遷を経る。 唐隆元年(710年)、中宗、天后と改める。 景雲元年(710年)、睿宗、大聖天后と改める。 延和元年(712年)、睿宗、天后聖帝と改める。 開元4年(716年)、玄宗、則天皇后と改める。 天宝8年(749年)、玄宗、則天順聖皇后の諡を追加する。
※この「諡号」の解説は、「武則天」の解説の一部です。
「諡号」を含む「武則天」の記事については、「武則天」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 03:44 UTC 版)
清から贈られた諡号は、「荘穆王」である。この諡号は、治世中の公式記録から徹底して取り除かれており、『朝鮮王朝実録』、朝鮮国王の行状、『陵誌文』といったほとんど全ての公式記録から取り除かれ、外交文書以外にはほとんど使用されなかった。『朝鮮王朝実録』は、清から諡号を授かった事実を記録するのみで贈られた諡号を記録していない。その理由は、「夷狄」とみなした清からの諡号を恥辱に感じていたからであり、表向きは清に対して朝貢・冊封の事大をおこない、恭順の姿勢を装うが、清に対する反発が拭い難く根付いていた。
※この「諡号」の解説は、「仁祖」の解説の一部です。
「諡号」を含む「仁祖」の記事については、「仁祖」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/14 11:58 UTC 版)
『史記』が記す諡号は、「秦始皇本紀」では「憲公」、「秦本紀」では「寧公」である。1978年に陝西省宝鶏県楊家溝太公廟村で出土した青銅器「秦公鎛」では、秦の初期の歴代公を「文公静公憲公」と銘記する。「秦公鐘」の銘文も「憲公」となっている。
※この「諡号」の解説は、「寧公」の解説の一部です。
「諡号」を含む「寧公」の記事については、「寧公」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 15:52 UTC 版)
中国史では皇帝の崩御後に生前の功績に基づいて謚号が贈られた。文帝、武帝、宣帝などが代表的な謚号にあたる。しかし、武則天以降は諡号が複雑長大になり、皇帝は宗廟ではなく固有の廟が建てられるようになったことから廟号で呼ぶことが通例となった。 「諡」を参照
※この「諡号」の解説は、「追贈」の解説の一部です。
「諡号」を含む「追贈」の記事については、「追贈」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 20:50 UTC 版)
武宣皇后卞氏 - 曹操(魏の武帝)の妻で曹丕(文帝)の生母。皇后を追贈された。 武宣劉皇后(劉娥) - 前趙の昭武帝劉聡の皇后の一人。 叱奴太后 - 宇文泰(北周の文帝)の側妻。武帝の生母で、その即位後に皇太后とされた。 司馬興男 - 東晋の公主(明帝の娘)で桓温の妻、桓玄の嫡母(義母)。桓玄が桓楚を建てた後に皇后を追贈された。 沈容姫 - 南朝宋の文帝の側妃。明帝の生母で、その即位後に皇太后とされた。 章要児 - 南朝陳の武帝の皇后。
※この「諡号」の解説は、「宣皇后」の解説の一部です。
「諡号」を含む「宣皇后」の記事については、「宣皇后」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 00:45 UTC 版)
献穆曹皇后 - 後漢の献帝の皇后。曹操の娘。 穆皇后呉氏 - 蜀の劉備の皇后。 張春華 - 司馬懿(晋の宣帝)の妻で司馬炎(晋の武帝)の祖母。皇后を追贈された。 庾文君 - 東晋の明帝の皇后。 楊皇后 (呂纂)(中国語版) - 後涼の霊帝呂纂の皇后。 裴恵昭 - 南朝斉の武帝の皇太子時代の正妃。皇后を追贈された。 丁令光 - 南朝梁の武帝の貴嬪で簡文帝の母。皇太后を追贈された。
※この「諡号」の解説は、「穆皇后」の解説の一部です。
「諡号」を含む「穆皇后」の記事については、「穆皇后」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 01:29 UTC 版)
東アジア世界の王朝における皇后の諡号。以下の人物に贈られた。 穆章皇后(何法倪(中国語版)) - 東晋の穆帝司馬聃の皇后。 恭譲章皇后(胡善祥) - 明の宣宗宣徳帝朱瞻基の最初の皇后。 孝恭章皇后(孫皇后) - 明の宣宗宣徳帝朱瞻基の2番目の皇后。 哲仁章皇后(哲仁王后(朝鮮語版、中国語版)) - 朝鮮の哲宗李昪の王妃。皇后を追贈された。 儀天章皇后(范氏姮(ベトナム語版、中国語版)) - 阮朝大南の憲祖紹治帝阮福暶の皇后。
※この「諡号」の解説は、「章皇后」の解説の一部です。
「諡号」を含む「章皇后」の記事については、「章皇后」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 09:10 UTC 版)
王政君 - 前漢の元帝の皇后。 明元皇后郭氏 - 魏の元帝曹叡の皇后。 楊艶(武元皇后) - 西晋の武帝司馬炎の皇后。 武元皇后 (前趙) - 漢(前趙)の昭武帝劉聡の1番目の皇后。 李皇后 (北魏文成帝) (文成元皇后) - 北魏の文成帝の側室で献文帝の母。皇后に追尊された。 袁斉嬀(文元皇后) - 南朝宋の文帝の皇后。 孝元貞皇后 - 明の泰昌帝(光宗)の正室(即位前没)。皇后を追贈された。
※この「諡号」の解説は、「元皇后」の解説の一部です。
「諡号」を含む「元皇后」の記事については、「元皇后」の概要を参照ください。
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 14:45 UTC 版)
文治元年(1185年)7月3日、九条兼実の発議により、諡号を贈ることが決まった。文治3年(1187年)4月23日、「安徳帝」と漢風諡号が贈られた。平安中期から天皇号は贈られず、院号が用いられていたが、安徳のみには天皇号が贈られている。
※この「諡号」の解説は、「安徳天皇」の解説の一部です。
「諡号」を含む「安徳天皇」の記事については、「安徳天皇」の概要を参照ください。
諡号
諡号と同じ種類の言葉
- >> 「諡号」を含む用語の索引
- 諡号のページへのリンク