しごう 【諡号】
諡
諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:48 UTC 版)
崩御後に大武皇帝と贈られたが、後に高宗により神堯皇帝に改められ(674年)、続いて玄宗により神堯大聖皇帝(749年)、さらに同じく玄宗により神堯大聖大光孝皇帝(754年)と改称された。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 05:58 UTC 版)
和風諡号は、日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 漢風諡号の元明天皇(げんめいてんのう)は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 21:11 UTC 版)
和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。漢風諡号である天智天皇は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が撰進した。森鴎外は『帝諡考』において、その典拠に『逸周書』世俘解、『淮南子』主術訓、『韓非子』解老篇を候補に挙げている。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 13:54 UTC 版)
遺詔には「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」とあったといわれる。唐王朝での諡号はその後も変遷を経る。 唐隆元年(710年)、中宗、天后と改める。 景雲元年(710年)、睿宗、大聖天后と改める。 延和元年(712年)、睿宗、天后聖帝と改める。 開元4年(716年)、玄宗、則天皇后と改める。 天宝8年(749年)、玄宗、則天順聖皇后の諡を追加する。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 03:44 UTC 版)
清から贈られた諡号は、「荘穆王」である。この諡号は、治世中の公式記録から徹底して取り除かれており、『朝鮮王朝実録』、朝鮮国王の行状、『陵誌文』といったほとんど全ての公式記録から取り除かれ、外交文書以外にはほとんど使用されなかった。『朝鮮王朝実録』は、清から諡号を授かった事実を記録するのみで贈られた諡号を記録していない。その理由は、「夷狄」とみなした清からの諡号を恥辱に感じていたからであり、表向きは清に対して朝貢・冊封の事大をおこない、恭順の姿勢を装うが、清に対する反発が拭い難く根付いていた。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/14 11:58 UTC 版)
『史記』が記す諡号は、「秦始皇本紀」では「憲公」、「秦本紀」では「寧公」である。1978年に陝西省宝鶏県楊家溝太公廟村で出土した青銅器「秦公鎛」では、秦の初期の歴代公を「文公静公憲公」と銘記する。「秦公鐘」の銘文も「憲公」となっている。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 15:52 UTC 版)
中国史では皇帝の崩御後に生前の功績に基づいて謚号が贈られた。文帝、武帝、宣帝などが代表的な謚号にあたる。しかし、武則天以降は諡号が複雑長大になり、皇帝は宗廟ではなく固有の廟が建てられるようになったことから廟号で呼ぶことが通例となった。 「諡」を参照
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 20:50 UTC 版)
武宣皇后卞氏 - 曹操(魏の武帝)の妻で曹丕(文帝)の生母。皇后を追贈された。 武宣劉皇后(劉娥) - 前趙の昭武帝劉聡の皇后の一人。 叱奴太后 - 宇文泰(北周の文帝)の側妻。武帝の生母で、その即位後に皇太后とされた。 司馬興男 - 東晋の公主(明帝の娘)で桓温の妻、桓玄の嫡母(義母)。桓玄が桓楚を建てた後に皇后を追贈された。 沈容姫 - 南朝宋の文帝の側妃。明帝の生母で、その即位後に皇太后とされた。 章要児 - 南朝陳の武帝の皇后。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 00:45 UTC 版)
献穆曹皇后 - 後漢の献帝の皇后。曹操の娘。 穆皇后呉氏 - 蜀の劉備の皇后。 張春華 - 司馬懿(晋の宣帝)の妻で司馬炎(晋の武帝)の祖母。皇后を追贈された。 庾文君 - 東晋の明帝の皇后。 楊皇后 (呂纂)(中国語版) - 後涼の霊帝呂纂の皇后。 裴恵昭 - 南朝斉の武帝の皇太子時代の正妃。皇后を追贈された。 丁令光 - 南朝梁の武帝の貴嬪で簡文帝の母。皇太后を追贈された。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 01:29 UTC 版)
東アジア世界の王朝における皇后の諡号。以下の人物に贈られた。 穆章皇后(何法倪(中国語版)) - 東晋の穆帝司馬聃の皇后。 恭譲章皇后(胡善祥) - 明の宣宗宣徳帝朱瞻基の最初の皇后。 孝恭章皇后(孫皇后) - 明の宣宗宣徳帝朱瞻基の2番目の皇后。 哲仁章皇后(哲仁王后(朝鮮語版、中国語版)) - 朝鮮の哲宗李昪の王妃。皇后を追贈された。 儀天章皇后(范氏姮(ベトナム語版、中国語版)) - 阮朝大南の憲祖紹治帝阮福暶の皇后。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 09:10 UTC 版)
王政君 - 前漢の元帝の皇后。 明元皇后郭氏 - 魏の元帝曹叡の皇后。 楊艶(武元皇后) - 西晋の武帝司馬炎の皇后。 武元皇后 (前趙) - 漢(前趙)の昭武帝劉聡の1番目の皇后。 李皇后 (北魏文成帝) (文成元皇后) - 北魏の文成帝の側室で献文帝の母。皇后に追尊された。 袁斉嬀(文元皇后) - 南朝宋の文帝の皇后。 孝元貞皇后 - 明の泰昌帝(光宗)の正室(即位前没)。皇后を追贈された。
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諡号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 14:45 UTC 版)
文治元年(1185年)7月3日、九条兼実の発議により、諡号を贈ることが決まった。文治3年(1187年)4月23日、「安徳帝」と漢風諡号が贈られた。平安中期から天皇号は贈られず、院号が用いられていたが、安徳のみには天皇号が贈られている。
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