長慶天皇とは? わかりやすく解説

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ちょうけい‐てんのう〔チヤウケイテンワウ〕【長慶天皇】

読み方:ちょうけいてんのう

[1343〜1394]第98代の天皇在位1368〜1383。後村上天皇の第1皇子。名は寛成。南朝側のため在位不明であったが、大正15年(1926)皇統譜加えられた。


長慶天皇 嵯峨東陵
(ちょうけいてんのう さがのひがしのみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第98
天 皇 名 :長慶天皇
ちょうけいてんのう
御   父 後村上天皇
御   母 嘉喜門院藤原氏
御 陵 名 嵯峨東陵
(さがのひがしのみささぎ
陵   形 円丘
所 在 地 京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町
交通機関等 JR嵯峨嵐山」又は京福嵯峨駅前下車  南す
陵印保管場所 桃山陵墓監区事務所

長慶天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/19 00:02 UTC 版)

長慶天皇(ちょうけいてんのう、1343年興国4年/康永2年〉- 1394年8月27日応永元年8月1日〉)は、日本の第98代天皇、および南朝第3代天皇(在位:1368年正平23年/応安元年)〉3月[注釈 1] - 1383年弘和3年/永徳3年)冬〉)。寛成(ゆたなり)。


注釈

  1. ^ 鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。
  2. ^ 伏見宮本・菊亭本『箏相承系図』や『正平二十年三百六十首』の朱注によれば、即位前の長慶天皇が「陸奥親王」と呼ばれていたらしいことが確認される。
  3. ^ 新葉和歌集』春上・37に、「福恩寺前関白内大臣」が寛成親王の立太子を願って詠んだ歌がある。なお、南朝系図は正平12年(1357年)に立太子とする。
  4. ^ 鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。
  5. ^ 花営三代記』応安6年(1373年8月2日条には、「南方」(長慶天皇)が「御舎弟宮」(熙成親王)に譲位して吉野に落ち延びたとの風聞を載せている。江戸時代に在位説を主張した諸家の間では、この記事を根拠として文中2年(1373年)譲位説を採用する者が多かったが、八代国治は実証的研究の立場から明確にこれを否定した。
  6. ^ 同趣旨の文書が翌年(1384年閏9月8日付で院宣として下されており、遅くともこれより前に譲位が行われたことは確実である。また、年次不詳3月14日付で河合寺に下した綸旨には「代始」の文言があり、これを同年のものと見ることが出来れば、さらに以前となる。以上2通は無年号文書であるが、この年には弘和から元中への改元があった。改元は譲位の翌年に実施するのが通例であるから、この場合は弘和3年(1383年)の冬(10月末から12月までの間)に譲位が行われたものと推測されている。
    さらに、村田正志は独自の鑑識眼に基づき、『阿蘇文書』の弘和3年11月4日綸旨を長慶のもの、『観心寺文書』の同年12月9日付綸旨を後亀山のものと判断した上で、譲位の時期がこの両日間に絞られると主張している[1]
  7. ^ 願文中にある「今度雌雄」の解釈をめぐっては議論があり、弟・後亀山天皇との確執を示したものとも、北朝や室町幕府との対立を指したものとも言われている。
  8. ^ 春斎より半世紀前、慶長7年(1602年山中長俊の作と伝える『中古日本治乱記』において既に在位説が見えているものの、その内容からは偽書の疑いもある。
  9. ^ 非在位説は『新葉集』の「御製」を全て後亀山天皇の作と誤認したことに基づくもので、その序に「三代の御門につかへ」とあるのをもって南朝を三代と推断した。
  10. ^ 村田はこの他にも、薬仙寺兵庫県神戸市)に伝存する『般若波羅蜜多理趣品』の一巻について、その筆跡や奥書の文辞から天皇宸筆であると考定している。

出典

  1. ^ 「南北朝と室町」 『村田正志著作集 第3巻 続々南北朝史論』 思文閣出版、1983年、ISBN 9784784203451。初出は1969年。
  2. ^ 『勧修寺長吏次第』
  3. ^ 村田 「長慶天皇と慶寿院」(『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年、ISBN 9784784203437。初出は1940年)
  4. ^ 外池昇 「臨時陵墓調査委員会による長慶天皇陵の調査―設置から「伝説箇所」の審議まで―」(『日本常民文化紀要』第29輯 成城大学大学院文学研究科、2012年3月)



長慶天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/30 02:17 UTC 版)

紙漉沢」の記事における「長慶天皇」の解説

南朝第3代の長慶天皇の潜幸伝説があり、終焉ともされている。

※この「長慶天皇」の解説は、「紙漉沢」の解説の一部です。
「長慶天皇」を含む「紙漉沢」の記事については、「紙漉沢」の概要を参照ください。


長慶天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 08:29 UTC 版)

青木文献」の記事における「長慶天皇」の解説

青木文献には、長慶天皇は康永元年1342年壬午8月13日に、五井美吉原隠沢城口全柵の天皇明澄院(現・豊川市御油町西沢御油神社)で降誕し、母は赤松氏三女玉己妃で、6歳の時、明澄院の細川海和尚と吉野上り後村上天皇皇太子就任し数年後三河御所宮(豊川市御津町)に帰り後村上天皇崩御後正平23年3月即位し天皇として(在位過ごした後、落飾して長慶院(覚理法皇)と称し、望理原豊川市)に明澄院を移し、錦門御堂仙洞御所)に行在し、檜御前藤原氏四女)と馬込御前竹本與四郎二女・弓引之の東に葬る)の二人の妃がいた。この錦門御堂は望理原豊川市小田渕町国府町地区)に建てられ東西450間、南北530間で、本殿の側に王田殿があり、その南に殿、北に長勝寺、西に高前寺、東に馬込殿があった。長慶天皇は1379年天授5年9月20日、王田殿にて崩御し青木和田尉盛勝三河の国田淵(現・豊川市小田渕町)に王田天神として祀り、御尊毛を王田天神納め、御尊体五井一本木萬福寺納めた法名金剛心院皇夫大士で、愛用の馬は弓引之埋葬した記録されている。

※この「長慶天皇」の解説は、「青木文献」の解説の一部です。
「長慶天皇」を含む「青木文献」の記事については、「青木文献」の概要を参照ください。

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