ちょうけい‐てんのう〔チヤウケイテンワウ〕【長慶天皇】
長慶天皇 嵯峨東陵
(ちょうけいてんのう さがのひがしのみささぎ)
長慶天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/19 00:02 UTC 版)
長慶天皇(ちょうけいてんのう、1343年〈興国4年/康永2年〉- 1394年8月27日〈応永元年8月1日〉)は、日本の第98代天皇、および南朝第3代天皇(在位:1368年〈正平23年/応安元年)〉3月[注釈 1] - 1383年〈弘和3年/永徳3年)冬〉)。諱は寛成(ゆたなり)。
注釈
- ^ 鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。
- ^ 伏見宮本・菊亭本『箏相承系図』や『正平二十年三百六十首』の朱注によれば、即位前の長慶天皇が「陸奥親王」と呼ばれていたらしいことが確認される。
- ^ 『新葉和歌集』春上・37に、「福恩寺前関白内大臣」が寛成親王の立太子を願って詠んだ歌がある。なお、南朝系図は正平12年(1357年)に立太子とする。
- ^ 鴨脚本『皇代記』によるが、日付を欠くため、3月11日の後村上天皇崩御を受けたものか、あるいは先だって行われた譲位を受けたものか、確認しがたい。
- ^ 『花営三代記』応安6年(1373年)8月2日条には、「南方」(長慶天皇)が「御舎弟宮」(熙成親王)に譲位して吉野に落ち延びたとの風聞を載せている。江戸時代に在位説を主張した諸家の間では、この記事を根拠として文中2年(1373年)譲位説を採用する者が多かったが、八代国治は実証的研究の立場から明確にこれを否定した。
- ^ 同趣旨の文書が翌年(1384年)閏9月8日付で院宣として下されており、遅くともこれより前に譲位が行われたことは確実である。また、年次不詳3月14日付で河合寺に下した綸旨には「代始」の文言があり、これを同年のものと見ることが出来れば、さらに以前となる。以上2通は無年号文書であるが、この年には弘和から元中への改元があった。改元は譲位の翌年に実施するのが通例であるから、この場合は弘和3年(1383年)の冬(10月末から12月までの間)に譲位が行われたものと推測されている。
さらに、村田正志は独自の鑑識眼に基づき、『阿蘇文書』の弘和3年11月4日付綸旨を長慶のもの、『観心寺文書』の同年12月9日付綸旨を後亀山のものと判断した上で、譲位の時期がこの両日間に絞られると主張している[1]。 - ^ 願文中にある「今度雌雄」の解釈をめぐっては議論があり、弟・後亀山天皇との確執を示したものとも、北朝や室町幕府との対立を指したものとも言われている。
- ^ 春斎より半世紀前、慶長7年(1602年)山中長俊の作と伝える『中古日本治乱記』において既に在位説が見えているものの、その内容からは偽書の疑いもある。
- ^ 非在位説は『新葉集』の「御製」を全て後亀山天皇の作と誤認したことに基づくもので、その序に「三代の御門につかへ」とあるのをもって南朝を三代と推断した。
- ^ 村田はこの他にも、薬仙寺(兵庫県神戸市)に伝存する『般若波羅蜜多理趣品』の一巻について、その筆跡や奥書の文辞から天皇宸筆であると考定している。
出典
- ^ 「南北朝と室町」 『村田正志著作集 第3巻 続々南北朝史論』 思文閣出版、1983年、ISBN 9784784203451。初出は1969年。
- ^ 『勧修寺長吏次第』
- ^ 村田 「長慶天皇と慶寿院」(『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年、ISBN 9784784203437。初出は1940年)
- ^ 外池昇 「臨時陵墓調査委員会による長慶天皇陵の調査―設置から「伝説箇所」の審議まで―」(『日本常民文化紀要』第29輯 成城大学大学院文学研究科、2012年3月)
長慶天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/30 02:17 UTC 版)
南朝第3代の長慶天皇の潜幸伝説があり、終焉地ともされている。
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長慶天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 08:29 UTC 版)
青木文献には、長慶天皇は康永元年(1342年)壬午8月13日に、五井美吉原隠沢城口全柵の天皇山明澄院(現・豊川市御油町西沢の御油神社)で降誕し、母は赤松氏三女玉己妃で、6歳の時、明澄院の細川貞海和尚と吉野へ上り、後村上天皇の皇太子に就任し、数年後に三河御所宮(豊川市御津町)に帰り、後村上天皇崩御後の正平23年3月即位し、天皇として(在位)過ごした後、落飾して長慶院(覚理法皇)と称し、望理原(豊川市森)に明澄院を移し、錦門御堂(仙洞御所)に行在し、檜御前(藤原氏四女)と馬込御前(竹本與四郎二女・弓引之松の東に葬る)の二人の妃がいた。この錦門御堂は望理原(豊川市森、小田渕町、国府町地区)に建てられ、東西450間、南北530間で、本殿の側に王田殿があり、その南に檜殿、北に長勝寺、西に高前寺、東に馬込殿があった。長慶天皇は1379年(天授5年)9月20日、王田殿にて崩御し、青木和田尉盛勝が三河の国王田淵(現・豊川市小田渕町)に王田天神として祀り、御尊毛を王田天神に納め、御尊体は五井一本木萬福寺に納めた。法名は金剛心院皇夫大士で、愛用の馬は弓引之松に埋葬したと記録されている。
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