八代国治とは? わかりやすく解説

八代国治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/04 03:59 UTC 版)

やしろ くにじ
八代 國治
著書『長慶天皇御即位の研究』での肖像写真
生誕 鈴木 國治
1873年(明治6年)1月2日
日本 木更津県市原郡上高根村
(現:千葉県市原市上高根
死没 (1924-04-02) 1924年4月2日(51歳没)
東京府東京市
病死-伝染病アクチノミコーゼ(放線菌症)
研究分野 日本国史、鎌倉時代から室町時代史料の研究
研究機関 東京帝国大学文科大学史料編纂掛
出身校 國學院
主な業績 長慶天皇在位の結論
『長慶天皇御即位の研究』
主な受賞歴 帝国学士院恩賜賞
プロジェクト:人物伝
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戦前『吾妻鏡』研究の代表作 八代國治『吾妻鏡の研究』

八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 - 1924年(大正13年)4月2日[1])は、日本明治大正期の歴史学者文学博士(1922年)。國學院大学教授等を歴任。長慶天皇在位の結論を出したことで知られる。帝国学士院恩賜賞受賞。勲六等瑞宝章追賜。東洋史学者・白鳥清は甥に当たる[2]

来歴

1873年木更津県市原郡上高根村(現在の千葉県市原市上高根)の農家の鈴木吉蔵の次男に生まれる[3]

1895年、上京し國學院に入学。1897年に國學院を卒業後、東京帝国大学文科大学史料編纂掛に入り、鎌倉時代史料の研究にあたる[3]

1901年2月、八代房吉の婿養子に入り八代姓を名乗った[3]

1908年には最初の日本史辞典である『国史大辞典』の編纂を行った。 1911年1月、國學院大學の講師となり、「国史学会」の創設に参画する[3]

1915年には吉野朝時代の編纂主任となり、一貫して中世史の研究にあたった。 1916年11月に「長慶天皇御即位に就ての研究」(『史学雑誌』第27篇第11号)を発表して長慶天皇の在位論を論じ、1920年には一連の研究成果をまとめた『長慶天皇御即位の研究』[4]を刊行、後の同天皇の歴代天皇追加(第98代)に決定的な役目を果たす。本書で1924年帝国学士院恩賜賞を受賞した。

また1919年より宮内省の依頼を受けて皇室領荘園)に関する調査・研究にもあたる。 1922年6月より國學院大學の教授を兼任する[3]1922年11月に文学博士の学位を得る[3]

1924年、アクチノミコーゼ(放線菌症)のため51歳で死去した[5]勲六等瑞宝章が追賜される[3]

著書

  • 国史大辞典』(共著)吉川弘文館、1908年
  • 吾妻鏡の研究』吉川弘文館、1913年
  • 『武蔵武士』(共著) 博文館、1913年
  • 『武相郷土史論』(共著)日本歴史地理学会 編、1917年
  • 『長慶天皇御即位の研究』 明治書院、1920年
  • 『長講堂領の研究』吉川弘文館
  • 『新體日本歴史』冨山房、1923年
  • 『新體女子日本歴史』冨山房、1923年
  • 『国史叢説』 吉川弘文館、1925年
  • 『足利庄の文化と皇室御領』吉川弘文館、1925年
  • 荘園目録』 八代恒治、1930年(1940年に明世堂書店)
  • 『北畠顕能公』飯南多気郷友会『会誌』特別第3号、1933年

脚注

  1. ^ 東京帝国大学一覧 従大正15年至昭和2年』東京帝国大学、1927年、374頁。 
  2. ^ 白鳥清『日本・中国古代法の研究 : 神判・誓盟の研究』(白鳥清先生頌寿記念会、1972年)p.255
  3. ^ a b c d e f g 澤田章「八代國治君小傳」『長慶天皇御即位の研究』明治書院、1927年、1-4頁。 
  4. ^ 八代國治「長慶天皇御即位の研究」『長慶天皇御即位の研究』明治書院、1927年、1-78頁。 
  5. ^ 服部敏良『事典 有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)325頁

参考文献

関連項目


八代国治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:59 UTC 版)

吾妻鏡」の記事における「八代国治」の解説

八代国治は『吾妻鏡研究』において、和田同様に全てが後の編纂物とし、更に「切り張りの誤」「生存者死者となす」「死者生存者となす」「偽文書採録」など「記事の誤」を徹底的に指摘し、原と同じよう政権闘争に関する史料としては、一等史料として信用しいとする。その一方で幕府政所問注所、及びこれに関係する者たちの日記記録文書、及び京都公家日記などの資料によって編纂した部分大部分占め、その編纂も幼稚で余り「斧削」を加えていない、従って曲筆偽文書意図的な顕彰注意深く取り除けば鎌倉時代根本資料として恐らくはこれに匹敵するものはあるまいとする。

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「八代国治」を含む「吾妻鏡」の記事については、「吾妻鏡」の概要を参照ください。

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