あずまかがみ〔あづまかがみ〕【吾妻鏡/東鑑】
吾妻鏡〈自寿永三年四月/至元暦元年十二月〉
主名称: | 吾妻鏡〈自寿永三年四月/至元暦元年十二月〉 |
指定番号: | 264 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1937.05.25(昭和12.05.25) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 紙背ニ応永十三年書写ノ山密往来アリ/「仁和寺心蓮院」ノ朱印アリ |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 南北朝 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 南北朝時代の作品。 |
吾妻鏡(抄録)
主名称: | 吾妻鏡(抄録) |
指定番号: | 265 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1937.05.25(昭和12.05.25) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | |
員数: | 1冊 |
時代区分: | 室町 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 室町時代の作品。 |
吾妻鏡〈四十七冊並ニ年譜一冊/〉
主名称: | 吾妻鏡〈四十七冊並ニ年譜一冊/〉 |
指定番号: | 1368 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1934.01.30(昭和9.01.30) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 第四十七冊ニ大永二年右田弘詮書写ノ奥書アリ |
員数: | 48冊 |
時代区分: | 室町 |
年代: | 1522 |
検索年代: | |
解説文: | 室町時代の作品。 |
吾妻鏡(北条本)
主名称: | 吾妻鏡(北条本) |
指定番号: | 2476 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1993.01.20(平成5.01.20) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | |
員数: | 51冊 |
時代区分: | 室町~江戸 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 『吾妻鏡』は、治承四年(一一八〇)四月の源頼政の挙兵から、文永三年(一二六六)七月、前将軍宗尊親王の帰洛までの鎌倉幕府の事績を編年体にしるした史書である。その成立については、源家三代とそれ以降を分けて考えるなど、欠失部分を含めて見解が分かれるが、成立の下限は鎌倉時代後期を降るものではない。 本書は世に「北条本」と称し、『〈新訂/増補〉國史大系』の底本となった本で、鎌倉時代史研究上の基本史料として知られている。いわゆる「北条本」とは、もと小田原北条氏に伝わった金沢文庫本系の写本で、天正十八年(一五九〇)小田原和議交渉の礼として北条氏直から黒田如水に贈られたものを、慶長九年(一六〇四)三月、如水の遺品として長政から徳川秀忠に献上された本である。本書は家康が翌慶長十年にこれを底本に伏見版『吾妻鏡』を印行せしめたことにより、近世版本の祖本となった。 体裁は袋綴冊子(朝鮮装)で、後補の茶表紙に外題簽を装している。料紙は黄蘗染楮紙に左右単辺、縦界の鳥絲欄を施し、版心部分に題名、巻次、丁数を記す。本文は半葉九行、一行十七字、注は小字双行に書写し、第一巻巻首の目録部分には全五十二巻の標目を掲げ、帝王系図、執権系図、関東将軍次第、同系図、関東執権次第、同系図以下北条九代記の記事を抄出し、本文は巻四十五を除く五十一冊を存する。各冊とも巻頭に年紀を掲げ、年月日ごとに行を改めるが、本文は必ずしも一筆ではなく、同一冊中に補写部分を交えるなど集成の過程を伝えている。しかしその大部分は室町時代後期の筆と認められ、うち九冊は江戸時代前期の写本である。 『吾妻鏡』を愛読し、その伝本の蒐集に努力した家康が、北条氏伝来本と、自己の所蔵本とを合わせて、現行のいわゆる「北条本」を編成したため、現行本にみる両者の関係については必ずしも明確でない点もあるが、巷間にいう「北条本」とはこの家康編成本をさすものである。 |
吾妻鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/15 09:15 UTC 版)
『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。吾妻鏡は、空白期間の存在が知られており、1196年から源頼朝が死去した1199年までの重要な約3年間が記録がなく、他に1183年、1242年、1249年、1255年、1259年、1262年、1264年の記述もほぼ欠落している。
注釈
- ^ 近藤守重は「老談一言集」と書いているが江戸中期の旗本で国学者の朝倉景衡(日下部景衡とも)が「老談一言記」を著している。
- ^ なお、関幸彦は『吾妻鏡必携』冒頭の「『吾妻鏡』とは何か」の中で「和田英松・八代国治などの代表的見解では」、増田宗も『国史大辞典』「吾妻鏡」の項で「和田英松・八代国治の研究によれば」として編纂2段階説を紹介しているが、より厳密には編纂2段階説は八代国治からであり、和田は少なくともこの1912年の「吾妻鏡古写本考」、更に1936年の「吾妻鏡の伝本に就いて」においても2段階説はとっていない。
- ^ 以下頁数は1941年復刊の明世堂書店版による。
- ^ 八代国治が『吾妻鏡の研究』で指摘したのは14箇所であったがその後の研究で3箇所が追加された。
- ^ 『愚管抄』には後に頼朝が後白河法皇に語った内容が書かれており、そちらの記述からこの間の経緯が理解されている。
- ^ 千葉氏における先祖顕彰は妙見信仰や『源平闘諍録』など、他氏には類を見ないほど強いものがあるが、野口実は『中世武家系図の史料論』収録の「千葉氏系図の中の上総氏」等の中で、その背景を上総千葉氏が宝治合戦に連座して滅亡し、庶子家の分立、幼少な当主と言う中での精神的な一族統合の必要性故としている。
- ^ なお、千葉氏に関しては安貞2年5月28日条の千葉胤綱の死亡記事において享年を誤記した疑いが高く、更に後世において『吾妻鏡』の記述を真実と信じた千葉氏側が誤った系譜の修正を行った問題が浮上している(詳細は千葉時胤を参照のこと)。
- ^ 辞世の句のようなもの。
- ^ 黒田俊雄は『日本の歴史8 蒙古襲来』 p48で「ほかにもそんな例は多いそうだから、盗作などと悪口をいうほどのことでもないらしい」とする。
- ^ 八代国治の『吾妻鏡の研究』(1913年)で初めて紹介されたものであり、1895年の『吾妻鏡集解』には収録されていない。
- ^ 八代国治の『吾妻鏡の研究』(1913年)に全文が紹介されている。
- ^ ただしこれを義時擁護のための編纂者の意図的な曲筆と決めつけてよいものかについては疑問もある。武久堅は1976年の『文学』44-10「畠山物語との関連」において鎌倉時代に『畠山物語』という四巻の軍記物があったと言い、『吾妻鏡』に見る畠山重忠像は北条氏に滅ぼされたにしては際だった英雄像であることから、そこでの畠山顕彰がそのまま『吾妻鏡』に書き写された可能性を大石直正は『吾妻鏡辞典』(p21)で指摘している。なお、細川涼一「河越重頼の娘」(『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』16号、)において畠山重忠と河越重頼の記事を比較して、重忠の同族(秩父一族)の出身で比企氏の婿であった重頼とその娘(源義経の正室)については存在をなるだけ「隠蔽」する曲筆が行われ、北条氏の婿である畠山重忠は北条氏と対立した比企氏・河越氏の事績を隠す意味においてはむしろ顕彰の対象であったとしている。
- ^ ただし鎌倉側にも関連資料が残っていたらしく、藤原保季を斬り殺した武士の名などは『明月記』にはない。
- ^ 殺された藤原保季は定家の親族である。
- ^ 五味は同時に文治2年(1186年)閏7月19日条もあげている。
- ^ その出産はツボを突いているように見えるが、他の要素との兼ね合いでの話であり、出産記事だけなら文治4年(1188年)1月22日条には政子の女房比企藤内朝宗の妻越後局の記事がある。
- ^ 頼朝の死に関する記事が無いことから江戸時代には「家康が隠したのでは」などとの憶測も生まれたが「江戸時代の研究」で触れた通りである。室町期の写本である「黒川本」や家康誕生前に死去した右田弘詮によって蒐集された「吉川本」にも3年分の記事が存在していないため、仮にこの時期の記事を書いた巻が存在したとしても早い時期に散逸した可能性が高い。
- ^ その説は、江戸時代後期の文化5年(1808年)2月に徳川幕府の書物奉行となった近藤守重が著した『御本日記続録』からであるが、黒田長政が『吾妻鏡』を献上したというのはその時期「寛政重修諸家譜」にまとめられた黒田家提出の系図の黒田長政の箇所からであり、そこには「九年(慶長)三月父が遺物備前国長光の刀、木丸の茶入を献じ、台徳院殿(秀忠)に東鑑一部を奉る」とあるのみで、何巻だったのかなどは記されていない。
- ^ 井上聡・高橋秀樹らの研究(『明月記研究』5 2000年)によれば、15世紀末から16世紀初頭の頃(文亀年間頃)オリジナルの42冊が書写され、それに対し享禄・天文(1528年から1554年)の頃にそのオリジナル写本に島津・吉川本系の写本から校閲がなされ、更に次ぎの段階で島津本系の写本から補写がなされ、それを家康は慶長以前(1596年以前)に入手したと推定される。
- ^ 家康が印行の準備に取りかかりるのは慶長8年(1603年)、翌慶長9年(1604年)3月に黒田長政から「吾妻鏡一部」の献上を受ける。つまり後北条氏が所持していたとされるものが黒田を通じて家康の手に入る以前に8割以上の巻を既に持っていたことになる。6月に西笑承兌に全52巻内49巻は揃っているが3巻が手元に無く、諸家に声をかけて捜しているところだと手紙を出している。そして更に翌年慶長10年(1605年)3月の慶長古活字本開版時点では52巻中51巻が揃っている。
出典
- ^ 國學院大學博物館 2019, p. 31.
- ^ 國學院大學博物館 2019, p. 6.
- ^ 八代国治『吾妻鏡の研究』 p68[注釈 3]
- ^ 八代国治『吾妻鏡の研究』 p71
- ^ 笠松宏至「徳政・偽文書・吾妻鏡」(『中世の窓』12号、1963年)
- ^ 『鎌倉幕府裁許状集』下 p51
- ^ 益田宗「吾妻鏡の伝来について」(『論集中世の窓』吉川弘文館、1977年)p326
- ^ 上横手雅敬『源平争乱と平家物語』p234
- ^ 上杉和彦『源平の争乱』
- ^ 上杉和彦『源平の争乱』 p124
- ^ 上杉和彦『源平の争乱』 p1
- ^ 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』p8
- ^ 横手雅敬『源平争乱と平家物語』
- ^ 保立道久『義経の登場』
- ^ 元木泰雄『武士の成立』 p193-195
- ^ 『中世の法と国家』収録
- ^ 石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 p173
- ^ 益田宗「吾妻鏡騒動記」
- ^ 益田宗『論説中世の窓』 p339
- ^ 原勝郎「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」(『史学雑誌』第9編第5・6号、1898年)
- ^ 元東大史料編纂所教授
- ^ 龍福義友 吾妻鏡の虚構一考補論──文治二年五月六日院宣の信憑性
- ^ 龍福義友「吾妻鏡の虚構一考─文治二年三・四・五月の公武交渉を素材として(上) 」(下)。
- ^ 平田俊春「吾妻鏡編纂の材料の再検討」
- ^ 平田俊春「承久役に関する吾妻鏡の記事の史料について」
- ^ 佐藤進一『史学雑誌』61巻9号、1952年
- ^ 八代国治『吾妻鏡の研究』 p68-69
- ^ 八代国治『吾妻鏡の研究』 p75
- ^ 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』p285[注釈 15]。
- ^ 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』p299
- ^ 「永仁三年記」6月26日条
- ^ 『論集中世の窓』p317
- ^ 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』 p310-311
- ^ 「金沢文庫古文書 324号」
- ^ 太田時連「永仁三年記」6月26日条
- ^ 岩波講座『日本通史』巻8 通史 p51
- ^ 太田時連『永仁三年記』
- ^ 岩波講座『日本通史』巻8 通史 p31
- ^ 五味文彦対談「『吾妻鏡』の謎をさぐる」
- ^ 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』p297
- ^ 『論集中世の窓』p334
- ^ 益田宗「吾妻鏡の伝来について」(『論集中世の窓』p345)
- ^ 八代国治「北条時頼の廻国説を論ず」
- ^ 「吾妻鏡」日本大百科全書(小学館)
- ^ 「吾妻鏡」『国史大辞典』p212
- ^ 五味文彦 『増補 吾妻鏡の方法』 p142 注記1
吾妻鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/18 17:57 UTC 版)
『吾妻鏡』11月12日条では、鎌倉幕府における諸国の国衙・荘園への守護・地頭の設置の経緯を次のように説明している。 およそ今度の次第、関東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太だ思し食し煩うの処、因幡前司広元申して云く、世すでに澆季たり、梟悪の者、もっとも秋を得るなり。天下反逆の輩あるの条、さらに断絶すべからず。而るに東海道の内においては、御居所たるに依って静謐せしむと雖も、奸濫定めて地方に起こるか。これを相鎮めんが為、毎度東士を発遣せられば、人の煩いなり。国の費なり。このついでをもって諸国の御沙汰に交わり、国衙・庄園ごとに守護地頭を補せられば、あながち怖れるところあるべからず。早く申請せしめ給うべしと云々 — 『吾妻鏡』文治元年十一月十二日条 即ち、諸国では騒乱が多く、その度に東国武士を派遣して鎮定することは諸国の疲弊につながる。そこで、朝廷に対し諸国の国衙・荘園に守護地頭の設置の許可を願い出るのがよいと、頼朝の腹心である大江広元が献策したという。 これを受けて『吾妻鏡』11月28日条には次のように記されている。 廿八日丁未、諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米段別五升を宛て課すべきの由、今夜、北条殿、藤中納言経房卿に謁し申すと云々 — 『吾妻鏡』文治元年十一月二十八日条 これは、上洛した北条時政が吉田経房を通じて後白河法皇に守護地頭設置の許諾を求めたものである。守護地頭の任免権は、幕府に託された地方の警察権の行使や、御家人に対する本領安堵、新恩給与を行う意味でも幕府権力の根幹をなすものであり、この申請を認めた文治の勅許は寿永二年十月宣旨と並んで、鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられることとなった。
※この「吾妻鏡」の解説は、「文治の勅許」の解説の一部です。
「吾妻鏡」を含む「文治の勅許」の記事については、「文治の勅許」の概要を参照ください。
吾妻鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 23:34 UTC 版)
吾妻鏡文治元年(1185年)10月9日の条には、源頼朝が命じるも鎌倉御家人の誰もが固辞した源義経討伐令を受けた土佐坊昌俊の討伐軍に列した弟三上家季の名が見える。三上家季は近江の武士と推定されている。
※この「吾妻鏡」の解説は、「三上氏」の解説の一部です。
「吾妻鏡」を含む「三上氏」の記事については、「三上氏」の概要を参照ください。
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