相馬御厨
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相馬御厨(そうまみくりや)は現在の茨城県取手市、守谷市、千葉県柏市、流山市、我孫子市のあたりにあった中世の寄進型荘園の一つ。「御厨(みくりや)」は皇室や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する。相馬御厨は伊勢神宮の荘園。
- ^ 元木泰雄の説
- ^ その寄進状は現存する(櫟木文書所収:『平安遺文』2586号)。
- ^ 野口実編『千葉氏の研究』の黒田紘一郎「古代末期の東国における開発領主の位置」
- ^ 井原今朝男の説(井原、2011年、P321-323)。
- ^ 『櫟木文書』「仁安二年六月十四日付皇太神宮権祢宜荒木田明盛和与状」(『平安遺文』第7巻3425号所収)
- ^ 『吾妻鏡』治承4年9月13日条に「安房国を出て、上総国に赴かしめ給う。所從の精兵三百餘騎に及ぶ。而るに廣常、軍士等を聚めるの間、猶遅参すと。今日、千葉介常胤子息親類を相具し、源家に參らんと欲す。爰に東六郎大夫胤頼父に談りて云く、當國目代は平家の方人なり。吾等一族悉く境を出て源家に參らば、定めて凶害を插むべし。先ずこれを誅すべきかと。」とある。
- ^ 『吾妻鏡』治承4年9月14日条に「下総国千田荘領家判官代親政は、刑部卿忠盛朝臣の聟なり。平相国禪閤に其の志を通ずるの間、目代誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。之に依って、常胤孫子小太郎成胤相戰う。遂に親政を生虜らん。」とある。
- ^ 岡田清一の説
- ^ 鹿島神宮文書所収「仁治元年十二月某日付摂政近衛兼経家政所下文」(『鎌倉遺文』5723号)。同文書には訴訟当事者がかつての「天下兵乱騒動」の際に相手方の父親が上総広常と図って鹿島郡にある所領を押領しようとしたと主張していたことが記されている。
- ^ 「建久三年八月日付太神宮神領注文」(『鎌倉遺文』614号)
- ^ 「地主職」の解説については山本、2012、P48-50を参照。
- ^ 『櫟木文書』「建久十年三月二四日相馬御厨上分送状」(『鎌倉遺文』1045号)
- ^ 山本、2012年、P100-102
- ^ 『国史大辞典』第8巻(吉川弘文館)「相馬御厨」(p591・執筆者:田代脩)より
相馬御厨
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大治5年(1130年)6月11日、千葉氏の祖である父・平常重は所領の「相馬郡布施郷」を伊勢神宮に下総相馬御厨として寄進しその下司職となっていた。しかし、保延2年(1136年)7月15日、下総守・藤原親通は、相馬郡の公田からの官物が国庫に納入されなかったという理由で常重を逮捕・監禁し、常重から相馬郷・立花郷の両郷を官物に代わりに親通に進呈するという内容の新券(証文)を責め取って押領してしまう。これに康治2年(1143年)に源義朝(頼朝の父)が介入し、常重から相馬郡(または郷)の証文を責め取った。だが義朝は伊勢神宮の神威を畏れて天養2年(1145年)3月、それを伊勢神宮に寄進する避文を提出した(責め取った証文が圧状とみなされて、伊勢神宮側から寄進の拒否をされたため)。 こうした事態に対して常重の跡を継いだ常胤は、久安2年(1146年)4月にまず下総国衙から官物未進とされた分を納め相馬郡司職を回復し相馬郷についても返却を実現する。常胤は8月10日に改めてその支配地域を伊勢神宮に寄進し、その寄進状が残っていることからその間の事情が今に知られることになる。 すでに天養2年(1145年)の源義朝による寄進があったが、常胤は「親父常重契状」の通り、伊勢内宮神官に供祭料を納め、加地子・下司職を常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じこれが承認された。このことについて義朝の行為は紛争の「調停」であったとする見方もあるが、常胤の寄進状には「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とあり、常胤にとっては義朝もまた侵略者の一人であることが判る。
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