千葉氏の反撃とは? わかりやすく解説

千葉氏の反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 08:48 UTC 版)

相馬御厨」の記事における「千葉氏の反撃」の解説

治承4年1180年石橋山の戦い敗れた源頼朝房総逃れた際、東胤頼進言により、藤原親通の孫親政討ち取ったことで房総藤原氏支配終止符打ち様子見していた上総広常も参陣した。そして、その後富士川の戦い平家及び平家方として参戦した上総氏当主印東常茂を破り転じて佐竹合戦佐竹氏敗走させた。 『吾妻鏡』では千葉氏頼朝加担したのは、累代源氏郎等であったからと説明されている。しかし千葉常胤にとっては、源氏侵略者一人であり「御恩」を感じるような相手ではない。平家結んだ房総藤原氏、そして常陸佐竹氏侵攻に対して頼朝を担ぐことによってそれを押し返し奪い取られた自領を復活する為の起死回生賭けだったのである佐竹合戦そのもの佐竹氏排除意図した千葉氏や広常が当主となった上総氏によって仕組まれたとする見解すら存在するのである佐竹合戦後も相馬御厨を巡る房総平氏内部における千葉氏上総氏争い解決しておらず、相馬常清及びその子定常が常清の兄である上総広常軍事力背景として御厨掌握していた可能性が高い。また、広常自身下総常陸国内に進出しようとした形跡みられる。だが、広常はその軍事力警戒された源頼朝によって討たれ、その一族所領失った頼朝千葉常胤従属したりした。上総氏没落後、相馬御厨支配権千葉氏掌握して、後に千葉常胤次男相馬師常譲られ子孫相馬氏として存続したと通常解釈されているが、実際にはもう1つ問題抱えていた。伊勢神宮佐竹合戦後も仁安和与状を有効と見做して、佐竹氏義宗)を正当な給主という立場鎌倉幕府成立後変えていなかったことである。そのため、千葉氏千葉常重有していた御厨前身である布施郷の地主職立場利用することになる。地主(職)は奈良時代から存在した概念であるが、土地開発のために国司特定人物地主職任じて公領開発を行わせた職であり、その任免権限下総国国司国衙にあったため、先の訴訟および和与とは無関係であった建久10年3月24日相馬御厨から伊勢神宮への年貢の上送状には、在庁官人推定される田所伴」「案主散位とともに地主平」の署判がみられ、相馬御厨官物沙汰に「地主平」=平姓千葉氏関与していたことが判明する相馬御厨地頭設置確認されるのは、嘉禄3年1227年)のことで当時地頭は義胤(師常の子)と推定される相馬五郎」である。相馬御厨における地頭設置時期は不明であるが、千葉常胤-(相馬)師胤-義胤のいずれか相馬御厨地頭に任ぜられたと考えられ、これによって千葉氏相馬氏相馬御厨支配権名実ともに回復した考えられている。 その後相馬氏御厨内の所領継承していったが、一部婚姻などを通じて岩松氏島津氏などにも渡った。なお、伊勢神宮雑掌御厨に関わっていたことが、室町時代応永32年1425年)まで確認されていることから、その頃まで御厨存在していたと考えられている。

※この「千葉氏の反撃」の解説は、「相馬御厨」の解説の一部です。
「千葉氏の反撃」を含む「相馬御厨」の記事については、「相馬御厨」の概要を参照ください。

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