佐竹氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 08:11 UTC 版)
佐竹氏(さたけし)は、武家・華族だった日本の氏族。清和源氏の源義光の孫昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称したのに始まる。平安時代末に平家に属して源頼朝に抵抗したので勢力を落としたが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復[4]。戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国にまで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏や伊達氏と争った[5]。豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで1602年に秋田20万石に減封された。戊辰戦争では官軍に属して戦い、維新後には侯爵に列せられた[5]。
注釈
出典
- ^ a b c 太田 1934, p. 2603.
- ^ a b c d e 太田 1934, p. 2610.
- ^ 太田 1934, p. 2609.
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『佐竹氏』 - コトバンク
- ^ a b 旺文社日本史事典 三訂版『佐竹氏』 - コトバンク
- ^ 佐々木 2021, p. 7.
- ^ 太田 1934, pp. 2603–2604.
- ^ 太田 1934, p. 2604.
- ^ a b 佐々木 2011, p. 8.
- ^ a b 太田 1934, pp. 2604, 2609.
- ^ a b c d 太田 1934, p. 2605.
- ^ 佐々木 2021, p. 14 - 15.
- ^ 藤木 1964, p. [要ページ番号].
- ^ 太田 1934, pp. 2605–2606.
- ^ 佐々木千葉 2021, pp. 290–298.
- ^ a b 渡部 1992, p. 35.
- ^ 渡部 1992, pp. 37–38.
- ^ 百科事典マイペディア『佐竹氏』 - コトバンク
- ^ a b 新田完三 1984, p. 20.
- ^ a b 太田 1934, p. 2611.
- ^ a b 松田敬之 2015, p. 327.
- ^ 松田敬之 2015, p. 329.
- ^ 松田敬之 2015, p. 328.
- ^ 松田敬之 2015, p. 326.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 44.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 353.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 558.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 606.
- ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 622.
- ^ “世界帝王辞典 佐竹氏”. 2019年1月13日閲覧。
佐竹氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 18:27 UTC 版)
常陸国の佐竹氏では佐竹氏四代にも及ぶ100年近く続いた佐竹の乱の最中で佐竹一門・山入氏の山入義藤・氏義父子が本家の佐竹義舜に背き、内紛が発生していた。延徳4年(1492年)に、義藤が病死すると、義舜の正室の実家である岩城氏が仲介役となり、和議が成立するが、氏義が太田城の明け渡しの条件を呑まずに再び義舜に背き、明応9年(1500年)に大山城、孫根城を攻撃し、義舜を金砂山城に追いやった。文亀2年(1502年)には氏義が金砂山城に攻め込んできて義舜は危機に陥ったが、天候の悪化をうまく活用し、撃退に成功(金砂山城の戦い)。その後、岩城氏・小野崎氏・江戸氏らの協力によって、永正元年(1504年)には常陸太田城を奪回することに成功した。永正3年(1506年)頃に山入氏を滅ぼし、家中を掌握した。その後は、独立的な動きを見せる江戸氏と同盟を結んだり、家法二十三ヶ条を制定したりと軍事力、領内支配の強化を図った。
※この「佐竹氏」の解説は、「竹林の戦い」の解説の一部です。
「佐竹氏」を含む「竹林の戦い」の記事については、「竹林の戦い」の概要を参照ください。
佐竹氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 08:59 UTC 版)
※この「佐竹氏」の解説は、「関東八屋形」の解説の一部です。
「佐竹氏」を含む「関東八屋形」の記事については、「関東八屋形」の概要を参照ください。
佐竹氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 09:51 UTC 版)
しかしこれらは豊臣秀吉が天正15年(1587年12月)に関東・奥州に対して発令した私戦を禁止する「惣無事令」以降のことであったため、その後の天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際、秀吉に恭順した政宗は、奪い取った蘆名領を全て没収された(宇都宮仕置・奥州仕置)。蘆名領は蒲生氏郷に与えられ、義広への返還はなされなかった。その後、秀吉から佐竹氏与力として、佐竹氏の領国に近い常陸の龍ヶ崎に4万石、次いで江戸崎に4万5,000石を与えられ、大名としての蘆名氏は一応復興した。盛重(もりしげ、「盛」は蘆名氏の通字、「重」は実父・義重の偏諱)と名乗ったのはこの時期であると言われている。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したため、連座して所領を没収された。
※この「佐竹氏」の解説は、「蘆名義広」の解説の一部です。
「佐竹氏」を含む「蘆名義広」の記事については、「蘆名義広」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 佐竹氏のページへのリンク