佐竹義準とは? わかりやすく解説

佐竹義準

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/23 12:44 UTC 版)

佐竹 義準
さたけ よしのり
生年月日 1869年7月1日明治2年5月22日
没年月日 (1924-04-08) 1924年4月8日(54歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学卒業
(現・東京大学法学部
配偶者 佐竹成子
子女 長男・佐竹義利
親族 兄・松浦厚(貴族院議員)
弟・大隈信常(貴族院議員)
弟・井上勝純(貴族院議員)

在任期間 1915年8月28日 - 1924年4月8日
テンプレートを表示

佐竹 義準(さたけ よしのり[1]1869年7月1日明治2年5月22日) - 1924年大正13年)4月8日)は、日本華族官僚。旧久保田藩主家佐竹氏の一門である佐竹東家を嗣いで男爵に叙せられた。陸軍歩兵中尉貴族院議員

生涯

平戸藩知事(最後の藩主)松浦詮の四男に生まれる。初名は。1901年(明治34年)東京帝国大学法科大学を卒業。

佐竹東家は「佐竹四家」と言われる佐竹一門であり、久保田藩では家老を務める家格であったが、先代当主の佐竹義寿が1884年(明治17年)に没したのちは、義寿の娘の佐竹克子、ついで義寿の義母にあたる佐竹銀子(先々代当主佐竹義祚の継室)が女戸主となっていた。1900年(明治33年)佐竹四家のうち北家・西家・南家は華族に列し、各当主は男爵が授けられているが、東家は女戸主であったため華族とはならなかった。

義準は銀子の養子となって1903年(明治36年)12月に家督を相続、佐竹東家の第23代当主となった。1906年(明治39年)9月、義寿の戊辰戦争での活躍が功績とされて佐竹東家も華族に列し、義準に男爵が授けられた。1907年(明治40年)9月、統監秘書官となり、以後朝鮮総督府取調局事務官、朝鮮総督府印刷所長などを務めた。

1915年(大正4年)8月28日、補欠選挙で貴族院議員(男爵議員)に選ばれ[2][3]、1924年(大正13年)に没するまでその地位にあった。

墓は雑司ヶ谷霊園にある。

家族

父母
子女
  • 長男:佐竹義利(元東洋製作所社長)
  • 長女(養女) :高子(泉高勅夫人)
  • 次女:良子(松平学義夫人、離別後谷安正夫人)
  • 三女:操子(岩崎彦弥太夫人)

脚注

  1. ^ 『平成新修旧華族家系大成』による。『議会制度七十年史』は「よしなり」とする。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、23頁。
  3. ^ 『官報』第924号、大正4年8月30日。

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度七十年史』大蔵省印刷局、1962年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。


日本の爵位
先代
叙爵
男爵
佐竹家(東家)初代
1906年 - 1924年
次代
佐竹義利




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「佐竹義準」の関連用語

佐竹義準のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



佐竹義準のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの佐竹義準 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS