佐竹義躬とは? わかりやすく解説

さたけ‐よしみ【佐竹義躬】


佐竹義躬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/26 06:31 UTC 版)

 
佐竹 義躬
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延2年8月1日1749年9月16日[1][注釈 1]
死没 寛政12年1月16日1800年2月9日
改名 太郎(幼名)→義寛(初名)→義躬
別名 河内、主計(通称)、雪松、嘯月亭、小松山人、一謙亭(号)、素盈(俳号)
戒名 泰俊院殿武山良威
主君 佐竹義敦義和
出羽国久保田藩角館所預
氏族 佐竹北家
父母 父:佐竹義邦
多賀谷峯章の娘
義文
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佐竹 義躬(さたけ よしみ)は、佐竹氏一門の佐竹北家第13代当主。佐竹北家角館第6代所預。

生涯

寛延2年(1749年)、佐竹義邦の長男として生まれる。明和6年(1769年)、父の隠居により家督を相続し、角館城代となる。安永4年(1776年)、藩主佐竹義敦の帰国の御礼使者として江戸に出府し、将軍徳川家治に拝謁する。天明元年(1781年)、光格天皇即位式典の祝賀使を務める。天明8年(1789年)、藩主佐竹義和の将軍徳川家斉への御目見の介添えを務める。寛政5年(1793年)、郷校弘道書院を開設する。寛政11年(1799年)、隠居して家督を嫡男義文に譲る。寛政12年(1800年)死去、享年52。

小田野直武から教えを受けて、花鳥図などの洋風画を描いており、直武・佐竹義敦(曙山)と並ぶ秋田蘭画の代表的な画家の一人である。父義邦と同じく谷素外に師事し、素盈と号した俳人としても活躍している。

作品

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
松にこぶし図 絹本著色 1幅 121.0x31.0 歸空庵(板橋区立美術館寄託 款記「雪松畫」/「源義躬」朱文方印・「字通大」白文方印
桜図 絹本著色 1幅 98.7x33.8 神戸市立博物館
岩に牡丹図 絹本著色 1幅 100.5x31.5 個人 款記「小松山人源義躬畫」/「小松山人」朱文方印・「源義躬印」白文方印
岩に牡丹図 絹本著色 1幅 93.2x31.3 個人 款記「源義躬」/「小松山人」朱文方印・「源義躬印」白文方印
岩に牡丹図 絹本著色 1幅 108.0x28.8 秋田県立近代美術館 款記なし/「義躬」白文方印・「一謙亭」朱文方印 義躬の父・義邦による賛「昔吟 此家に 是はと おもふ 牡丹かな」
白牡丹図 紙本著色 1幅 秋田市立千秋美術館
岩に蔦と芙蓉図 紙本著色 1幅 秋田市立千秋美術館
金頭図 紙本著色 1幅 個人(秋田市立千秋美術館寄託)
紫陽花図 1幅 角館歴史村・青柳家
円窓牡丹図 絹本著色 1幅 73.3x32.8 神戸市立博物館 款記「添幽仙客」「嘯月閑人」/「小松山人源義躬畫」/「小松山人」白文方印・「源義躬」朱文方印
紅毛玻璃図 絹本著色 1幅 37.0x53.0 秋田県立近代美術館 「小松山人」朱文方印・「源義躬印」白文方印 田代忠国との合作
植物写生図 紙本著色 10幅 仙北市学習資料館 無款 仙北市指定文化財

脚注

注釈

  1. ^ 5月4日説もある[2]

出典

  1. ^ 佐竹義躬』 - コトバンク
  2. ^ 『新編佐竹氏系図』(加賀谷書店、1973年)p.143

参考文献

  • 林正崇『図説・角館城下町の歴史』無明舎出版、1982年
  • 内田洸 池田芙美 柴橋大典編集 『世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画』 サントリー美術館、2016年11月16日



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