佐竹昌義とは? わかりやすく解説

佐竹昌義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/29 03:40 UTC 版)

 
佐竹 昌義
時代 平安時代後期
生誕 承暦5年(1081年
死没 久安3年(1147年)?
別名 佐竹冠者
官位 信濃
氏族 河内源氏義光流、常陸源氏佐竹氏
父母 父:源義業、母:吉田清幹の娘(常陸平氏大掾氏
兄弟 昌義、山本義定、交野行義(進士次郎)、義仲、證玄(源尊)
正室:皇嘉門院長官・平扶幹の娘[注 1]
継室:藤原清衡の娘
佐竹義政、国分義弘、佐竹隆義袋田義宗、岡田親義、革島義季(昌成[注 2]、安藝(僧侶)、義心(僧侶)、娘(吉川経義室)
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佐竹 昌義(さたけ まさよし)は、平安時代後期の武将清和源氏義光流源義業(進士判官)の長男で、幼名は太郎。佐竹氏の祖。

嘉承元年(1106年)の常陸合戦では、下野を地盤としたが常陸へも勢力を及ぼそうと図り攻め入った従父の源義国足利氏新田氏の祖)に対し、祖父の義光・父の義業、外祖父の大掾重幹とともに戦い退けた。

生涯

昌義は父から継承した常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧佐竹村)を中心に勢力を拡張し、旧来から常陸国に土着していた小野崎氏などを屈服させ、奥常陸7郡の支配をさらに進めた。また、正室には奥州藤原氏藤原清衡の娘を娶るなど、隣国の有力者との婚姻も結びその勢力基盤の確立に努めている。

保延6年(1140年)、佐竹寺において一節の竹を発見し、吉兆と喜び姓を佐竹と称したとする伝承がある。また、馬坂城・太田城を改修しそこを拠点としている。

太田城に移った時に、常陸の海岸に珍魚が多数浮き上がった。漁師が太田城に献上したが、魚の名前を知る者がいなかったので昌義は、魚の頭が旗に似ていることから、これにと命名した。その後、秋冷の季節になると、鰰が常陸の海岸に押し寄せたとされる。しかし佐竹氏が秋田に移ると、鰰は常陸の海岸を訪れずに、秋田へお供してしまったとされる(『太田御城古実』)[1]

子孫

昌義の子のうち、長男の忠義(忠幹)大掾氏の後を継ぎ、次男(六郎とも)の義弘は庶子のために分家して国分氏の祖となり、家督は嫡子で三男(四男とも)の隆義が継承した。

寛政重脩諸家譜』によると、次男とされるのは袋田次郎と称した雅楽助義宗。三男の親義は岡田三郎で、同族の木曾義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いで討ち死にした[2][注 3]。四男が隆義と記されており、五男は五郎義季と名乗り、後に革島昌成と改名した。他に僧侶となった男子(安藝、義心)がいる。

参考文献


脚注

注釈

  1. ^ 扶幹の名を快幹とする史料もあるが、扶幹が正しい。『常陸大掾系図』に平成幹(佐竹昌義の母の兄弟)の子としてみられる助幹に比定する説もある(佐々木 2008, p. 12)。
  2. ^ 山城国葛野郡川島庄を拠点とした。
  3. ^ ただし、『源平盛衰記』で登場する源親義(岡田冠者)と混同する見方もある。

出典

  1. ^ 福島 1966, p. 267.
  2. ^ 『寛政重脩諸家譜』774頁。

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