戦国以後の吉成氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:13 UTC 版)
『新編国志』によれば、常陸国久慈郡塙村の十二所の棟札に吉成讃岐、吉成石見同織部ありと伝え、元来、白河結城氏の臣であったのが佐竹氏に仕えたとの見方を記している。 佐竹家臣団の中では佐竹宿老四殿衆として江戸孫太郎五百貫、小野崎山城守500貫、小貫彦三郎70貫に並ぶ吉成兵庫120貫の名が見え、同族頭衆に吉成彦三郎50貫、佐竹家中の衆として、介川周防守、国安左重允、和田掃部、小貫又三郎、藤田大隅守、平沢左近、根本紀伊守、長山勘解由、福地豊後守らの名と共に吉成刑部大夫の名が見える。 尤も、佐竹氏の家祖 佐竹昌義と共に常陸に入部した家臣として大森介十郎、佐藤源太郎、佐藤備前、根本越後らと共に吉成久介の名が見え、平安時代からの佐竹家臣としての吉成氏の系統があったことから、佐竹家臣の吉成氏の全てが田村氏や白河結城氏家中の出身であったと見ることはできない。 なお、文禄4年(1595年)8月28日の「高野郡関係知行充行奉書目録」によれば、佐竹氏が陸奥南郷に広げた領地のうち、吉成勘解由、豊前にそれぞれ“いかう”の地に40貫、吉成豊後に東館に40貫、吉成内蔵助に堤・手沢の地25貫ずつ計50貫が給されており、佐竹氏の陸奥南郷支配の一端を担っていたと見られる。
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