戦国初期の安房里見氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 06:10 UTC 版)
同時代の文書で確認できる最初の安房里見家当主は、3代目とされる里見義通である。永正5年(1508年)9月25日に安房国一宮鶴谷八幡宮に納められた棟札には「鎮守符将軍源朝臣政氏(古河公方足利政氏)」の名とともに「副帥源義通(里見義通)」の名が記されている。これは里見義通の実在性と安房支配の確立を示す明証であると考えられている。その後の古河公方家の内紛に際しては、小弓公方足利義明を奉じ、上総・下総・相模へたびたび侵入し、後北条氏をはじめとする反小弓公方派の大名・国人と争う。大永6年(1526年)11月26日には、里見氏の軍勢(4代当主里見義豊の後見人であった叔父の里見実堯の軍勢とされているが、当主義豊本人とする説もある)が三浦郡・鎌倉郡へ侵入し、鶴岡八幡宮を焼き、玉縄城下で北条方と戦っているが、これも小弓公方の意向に従ったものであるとされている(鶴岡八幡宮の戦い)。 天文2年(1533年)7月27日、里見義豊が叔父の里見実堯を討つが、翌年4月6日には実堯の実子の里見義堯が、後北条氏の与力を得て、里見義豊の籠もる稲村城を落し、義豊を自害に追い込み家督を継いだ。この一連の内紛を天文の内訌(稲村の変)と呼ぶ。天文の内訌については、若年の義豊が無思慮に後見人である叔父を排除したことがきっかけであると描かれてきたが、近年の史料発掘の結果として義豊はすでに壮年を迎えており、庶流である里見実堯・義堯父子による宗家に対する下克上の一環であったとの見方が強まっている。このため、義豊以前を「前期里見氏」、義堯以後を「後期里見氏」と呼んで区別する研究家もいる[要ページ番号]。 また天文の内訌に関連し、「後期里見氏」がその正当性を主張するために「前期里見氏」に関する記録を改変した疑いも持たれている。義豊が若年の当主とされた点や、第2代当主「里見成義」の実在が疑われる点などがそれであり、義豊以前の里見氏の記録が異常に少ないことも「後期里見氏」による史料の隠滅に関係していると言われている。また、「前期里見氏」の一族(義通または義豊の子孫)と推定される「源民部太輔」という人物が安房国白浜城にいたことも確認されている。
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