同時代とは? わかりやすく解説

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どう‐じだい【同時代】

読み方:どうじだい

同じ時代。同じ時期また、同じ時代存在すること。「―の作家


同時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/30 07:49 UTC 版)

同時代どうじだい)は、エッセイ、評論、研究、詩の伝統ある同人雑誌。


  1. ^ 清水茂『詩と思想』320号、2013年8月、土曜美術出版販売、pp.2-4
  2. ^ 『同時代』第2次第43号、1984年3月、法政大学出版局、pp.71
  3. ^ 『同時代』第3次34号、2013年6月、舷燈社、pp.153
  4. ^ 『同時代』第4次創刊号、2020年2月、黒の会、pp.182-183


「同時代」の続きの解説一覧

同時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 01:40 UTC 版)

真土事件」の記事における「同時代」の解説

横浜毎日新聞1876年8月25日9月7日10月7日1978年9月2日10月29日31日11月2日21日26日12月1日20日1879年2月27日5月11日。 「東京横浜毎日新聞1880年6月15日1882年1月13日。 「真土村長右衛門謀殺一件」「仮名読新聞1878年11月5日-11日。 「神奈川県真土騒動の始末」「読売新聞1880年6月3日。 「東京日日新聞1878年10月30日11月1日2日。 「郵便報知新聞1878年10月30日-31日。 「東京絵入新聞1978年10月31日。 「東京さきがけ1978年11月4日武田交来『冠松真土夜暴動』(かんむりまつまどのよあらし)錦堂、1880年9月所収明治文学全集(2)明治開花期文学(二)筑摩書房1967年 p213-。 富田校閲)『相州奇談真土晒月疊之蔭』守屋正造刊、1880年6-9月、所収増訂維新農民蜂起譚』1965年 p328。 雑炊雄『絵入真土義農精心』錦堂、1880年8月羽田富治郎編『真土恨の寝刃』、所収絵本』(全15冊)1881-1883年。 早川弘毅真土松木』金英堂、1882年9月泉鏡花冠弥左衛門1892年松林伯知『真土焼討騒動大川屋、1901年12月

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同時代

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ガートルード・ベル」の記事における「同時代」の解説

同僚のD・Gホガース英語版)が書いた追悼記事にはイギリス政府関係者が彼女を尊敬していた事記されている。ホガースは彼女を称えて次のように述べている。 困難で危険な冒険への嗜好科学的な興味知識考古学芸術への能力優れた文学的才能あらゆる種類状況男性への共感政治的な洞察力人間価値観への評価男性的な活力厳し常識実用的な効率性などの資質を、女性的な魅力と最もロマンティックな精神によって調和させた女性近年いなかった。

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同時代

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坂本龍馬」の記事における「同時代」の解説

西郷隆盛天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬如くもの、未だかつて之を見ず龍馬度量や到底測るべからず」 「直柔龍馬)は真に天下英傑なり」 木戸孝允大兄御心公明と御量の寛大とに御任せなられ候てとかく御用捨これなき方に御座候岩倉具視中岡坂本二子を見るを得たるは大橋子の恵みなり。誼を条公に通じ、交を西郷木戸広沢黒田品川五子に結びたるは、中岡坂本二子恵みなり」 松平春嶽坂本龍馬氏は土州藩士にして国事為に日夜奔走して頗る尽力せしは衆庶の知る所なり」 坂本龍馬土州藩なり。すこぶる勤王家にして国家のため尽力せし人なり 武市半平太土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後) 「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名に恥じず」(獄中で) 武市富子「(龍馬庭先用を足すことに対し龍馬さんはいつもこれだから困る」 平井収二郎元より龍馬人物なれども書物読まぬ故、時として間違ひ事もござ候へば」(龍馬脱藩後) 中岡慎太郎龍馬君は、さすが才子なり」 板垣退助豪放磊落、到底吏人たるべからず龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩五代才助土佐岩崎弥太郎たるべけん」 「一介の武弁而して海南素族起し能く天下に周旋し王政復古大業翼賛し、遂に刺客の難に斃れ坂本龍馬君の如きは、其の烈洵に千載亘り朽ちずと謂ふべし(『坂本龍馬顕彰碑』の碑文より)」 「板垣今日あるは偏に坂本先生中岡先生御陰様で御座います」(上記坂本龍馬顕彰碑建立御礼坂本家代表して宍戸茂が、東京板垣退助挨拶訪れた際、板垣茂に対して語った言葉後藤象二郎「(龍馬生きていれば総理大臣になっていたかの問いに)彼奴政治家ぢゃない。商売人だよ。三菱だな…」 田中光顕「(龍馬写真見て)あれはよくできすぎちょる。ほんとは色が黒うてのう。背丈は大がらで五尺七寸くらい。あんな好男子じゃなかった」 「龍馬は詩など書くような男ではなかった」 「坂本という男は元より画など描いたことのないのに其の死んだ後坂本描いたという偽の書や画が盛んに出る。中には立派な印を押したものさえあるが僕は坂本は印など持って居ない信じていた所が下関本陣伊藤九三の家にある坂本の手紙の中に梅の花片を五ツかつらねて其の中に太郎という字を彫ってあるのがある。つまり才谷梅太郎ということだ。これは意外だやっぱり坂本も印を持っていたものだ。この時あまり大きな口は叩けぬものだと驚いたことがある」 「闊達磊落な男で、長州言えば高杉晋作の型に似てる」 「(龍馬お龍連れて出歩くことに対し)これにはどうにも驚かされた男女同行この頃はやるが、龍馬維新前石火刀杖間において平気でこういう狂態演じていた。そういうところは高杉そっくりである」 「あまり人には見せなかったが、裸になる背中真黒だ。そのうえ黒毛さんさんとして生えていたのは珍しい。『龍馬のいわれがわかったか』彼はそう言ったものだがなるほど、この背中を見ると龍馬の名にふさわしかった」 「見廻組新選組のものにしきりにつけねらわれた。『君は危険だから、土州藩邸に入れ伊東甲子太郎がこうすすめたこともあったが彼は聞き入れなかった。藩邸に入ると門限その他、万事屈の思いせねばならない自由奔放闊達不覇の彼はそういうこと好まなかった。で、やはり名をかえ藩邸附近に宿をとっていた。のみならず彼は平生王政維新大業さえ成就したなら、この一身もとよりおしむ所にあらず、もう無用の身だ』といっていた」 「坂本海援隊組織して、その指揮をしていた。これは中岡陸援隊相対したものであって彼の意中には海国日本の開発を抱蔵していたことは誤りない。龍馬献身報国至誠死後といえども祖国の上守っている。死してなお死せずいうのは思うに龍馬のごとき人物であろうと思われる」 「君たち竜馬竜馬大そう男のようにいうが、僕たち友人からみればそれほどの男と思ったことはない。ただ竜馬ばかじゃないかと思ったのは、刺客つけまわされている中を例のお竜をつれ、よさこいなど口ずさみながら四条大橋あたりを歩いているところは本当にこの男ばかじゃないかと思ったよ」 大石弥太郎龍馬帯解けひろげのバタラゲたる男なり」 谷干城容貌丈高く、顔長く、色浅黒く満面点々たる黒子あり。誠に留め易き人相なり」(『坂本龍馬言行録』) 土方久元維新豪傑としては、余は西郷高杉坂本三士挙ぐべし。三士共に其の言行頗る意表に出で、時として大い馬鹿らしき事を演じたれど、又実に非凡思想有し、之を断行し得たりし」 佐々木高行元来坂本と言う男は時と場合とにより臨機応変言わデタラメ放言する人物なりき。例え温和過ぎたる人に会する時には非常に激烈なる事を言い、これに反して粗暴な壮士人物には極めて穏和なる事を説くを常とせり。斯様筆法なる故に坂本には矛盾などという語は決しあてはまらぬなり。昨日今日吐き言葉が全く相違するといっても少しも意とせず、所謂によりて法を説くの義なりと知るべし」 「坂本時として随分過激な語を吐きしが、性来頗るやさしき男なりき。老人幼者婦女に対して殊に穏かにせり。長崎在りし際、時々部下壮士率いて酒楼上りし事がありしが、女共何時も坂本サン坂本サンと言いて非常に慕いたり。尤もこれは単に個人として坂本親切に感ずるばかりでなく、坂本が居る時は壮士等は敢えて乱暴の振舞いをなさぬ故に坂本の来るは彼等歓迎すべきはずなりき。坂本また言い事あり。『我々は今国事に奔走して幕府指目する所となり居れば何日何時縛につくやも測られず。もし萬一我々が、芸妓風情と相携えて撮影することありて、之により其踪跡物色せらるるあらば、志士面目として大い恥づべき業なれば、我々じゃ断じて此の如き卑猥行為あるべからず』と。彼は大豪放なるが如くして、其實思慮周密なること斯の如し」 「坂本目的定めなば必ず之を達す手段講究したり。余はある夜坂本種々の談話交換したりしが、此時坂本言う『我国耶蘇教輸入し以て幕府苦しめ倒さん』と。余言う『もし幕府倒し得るとするも、該教の蔓延我国體上大変なり』と。双方論ずる事久し結局両人共に耶蘇教何にものたるを知らず俗に言う盲人叩き合いにて何の厄にも立たず深更至り此等研究他日に譲るとなし、果ては大笑い催しつつ寝につきたり。坂本目的に対して手段講究すること此類なり」 「才谷一見婦人の様風采であるが、度量はなかなか大きい」 「才谷はなかなかの計画家」 「才谷は実に時勢によく通じて居る」 「才谷度量大きいが、其の遣り口はすべて人の意表出て、そして先方機鋒挫いて了とうにする。実に策略は甘い(心地よい)ものであった中島信行坂本氏は時々じつに意表に出ずる事を言う人なりき」 高松太郎直柔容貌温厚言語低静にして志気卓犖英気なり。武技を喜くし、好んで史書を読む」 「資性豪宕不羈小節に拘わらず嘗て読書好み和漢史子を渉漁す」 「少より跌宕小節に拘わらず長ずるに及て博く和漢史籍に跋猟し、また武技を喜めり。初め本州の人、日根野義興に学び、のち東府に遊んで千葉周作に従い、其技を研鑽す。故に身体強壮人なり」 「我輩ハシゴをしても及ばず寺村左膳坂本龍馬なる者は先年御国許出奔し長州へ行、長藩之浪士輩と結び大に人望得たる者のよし、薩長両藩一時葛藤生じたる時も、頗る尽力して和解計れと言」 「浪士巨魁」(薩土盟約時、『寺村左膳道成日記』) 岡内重俊「藩商高知より来る。人物最も狡猾なり。余之を龍馬告げたるに、龍馬平然として商人の狡猾なるは当然なり。狡猾ならずんば利を得る能わず』と答え、余をして辞に窮せしめたり」 大江卓「(いろは丸事件談判中島作太郎選ばれたことを評し)人もあらうにこの青二才大任当たらせ所に坂本眼識もあらうというもの。しかし中島大功酬うるに僅かに百両をもってしたのには、我々も其のの余りに吝なるに驚いたが、後に到っ考えて見れば若い者余り大金持たせるのは何うせ善い事はないとの遠謀ある老婆心からであったろうと一層感心したのであつた。坂本人物について、かつて板垣退助)がこういうことをいった。『坂本若し生きていたならば、或いは実業家となって五代友厚の少し大きいのになつたらうョ』と、板垣にはまた板垣の見る所があったのだろう」 「坂本広野猛獣であった中江兆民「予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なり信ぜるがゆえに、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐なまりの言語もて、『中江ニイさん、煙草買ってきてオーセ』などと命ぜらるれば、快然として使いせしことしばしばなりき。彼の眼は細くして、その額は梅毒のため抜けあがりおりたり」 中城早苗坂本権平の弟にして郷士御用人、本丁に住す一絃琴を玩べり。才谷色黒満面よりアザあり。惣髪にて羽二重紋付羽織袴白き様なる縞の小倉袴)、梨地大小、髪うすく柔和の姿なり」 吉田数馬少年時分二三友人と共に坂本先生伴われて種崎桃見行った其の休憩した掛け茶屋の女は嘗て坂本先生の家に奉公したものであったが、坂本先生が黒い盲縞羽織袴を著けて居るのを見て、『坂本旦那、弥智がないじゃありませんか(土佐の方言にてとんでもないことをするとの意)。そんな着物着てと言いしが、坂本先生只にやりにやりと笑いながら、何も答もしなかった。帰途についた時、坂本先生は『今日下駄三分で刀が二朱じゃ。滔々たる天下只奢移淫靡を是事としている。世の先覚者率先して三百年の惰眠打破ねばならぬ。それで俺は女の注目惹く様な縞柄着物は著ぬ』と云った」(『吉田数馬先生川田正澂逸事数節」) 土居楠五郎道場来て龍馬心機一変おねしょ泣き虫も一ぺんに飛んでしもうた。朝は真っ先に夕べ最後まで、飯を食わんでも剣道稽古一筋愉快でたまらん面白うてたまらん、そんな気持ちなんぼでもやる。『坂本、もうよかろうと言うと先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる。(中略)そこで体当たりをやると、体は大きいが若いのでぶっ倒れる。すると跳ね起きてまたかかってくる。襟首つかんで前に引き倒すと腹ばいに延びる。それでもすぐ起きてたかかってくる。この根性にはすっかり感心した一度道場内の試合龍馬が勝ち放し二つ三つ年上のものを。この時祖父師匠達もびっくり弟子達もびっくり龍馬自身びっくりということだった」 池元徳次「龍馬さんは、さいさい篠原街道舟入川に沿う東の方行きよった。肩を傾けて風を切るように意気揚々と歩く人じゃったが、道ばたで子どもがおるのを見かけると傍へ寄っていって頭をなでたり早よう太うなりよ』と声かけたりしてかわいがった。そんで子どもらあは龍馬さんを慕うて、もぶりつきよった。才谷屋は高須新木領地あったからか、袋などをぶら下げてあの辺りをよう歩きよった。龍馬さんはその時分五台山におったことがあるしのう。あしはそのころ山仕事もしよったきに五台山山へもよう出かけたが山の中の一軒の家龍馬さんは一人で、よう読書をしよったのう。あしは行き戻りしによう見たもんじゃった」 原考徳「龍馬子供好きなりし故、予も戯れて背中飛び付き負はれなどせり。然るに龍馬生まれつき毛深き性にて、其の胸にも背にも長き毛生ひたり。(中略)龍馬右肩左肩片方の肩を怒らして歩行く癖あり。顔色浅黒き方なりし、肩の上に大きな黒痣あり、その右なるか左なるかは忘れたり躯幹偉大にして、武市背高人なりしも、坂本も少し丈夫に大きく見えたり。一体物に構はぬ人にて体裁をつくろはず路など歩行き居るを見るに、昴首端正なる姿はせず、考事に耽でもしながら歩み居る様にてありたり。時に朱鞘帯びたこともありし、帯刀一体に長刀なりし、撃剣の盛なる時代にて稽古面をかぶる為め、頭髪乱れがちなれば、紙縒りもて髷を結ひ居たり」(原の談話) 宮地彦三郎「海陸隊長一時に失したり。これ以後才谷くらいの豪傑土州には生じ申さず上下泣涕至り堪らず候」 豊川良平故人(龍馬)を一言して評すれば稀に見る勤王家極く大膽な度量の多い反面には亦た非常な真面目の且つ親切な人であった背丈高く肉附が良く恰度今の海軍々令部長島村大将(島村速雄)に彷彿たる格好で風貌魁偉な處にも何処やら優しみのある柔和なであった記憶する何分故人自分の世話を焼て呉れ当時は私は八歳腕白盛で其頃トンコロリと言って非常に流行した安政虎列拉コレラ)に自分の母親罹って亡くなったのでツイ近所であった龍馬氏は廿歳前後屈強な剣士であったのであるが、毎晩のように訪ねて来て呉れては私の旧名、春弥を呼で親切に慰め労わって呉れた。殊に私が九歳の正月足袋間に合わぬので外出する事が出来ず困っているのを見て祖母手伝って片足足袋逞しい指先縫って呉れた上、着物まで着せて呉れて『夫れ遊び行け』と手を取って連れ出して貰った事などもある。其当時は武芸が旺であったので、当時日根野日根野弁治と言う道場に通っていた龍馬氏は折れた竹刀合せて立派な子供竹刀拵え武士の子供剣術出来ねばならぬと言って親切に教えて呉れた。此の様な風で藩の者からは非常に評判良かったが、その大膽な事も驚く許りで、私の継母実家池田池田寅之進と言う者が正義の為、喧嘩をして相手切り殺し大騒ぎをしている處へ単身出掛けて行って群る相手追い払い立派に介錯て遣った事に衆人が其豪勇沈着さに舌を捲いた。此のような事は屡々見受けられた勝海舟聞く薩、長と結びたりと云。又聞坂本龍馬、長に行き是等の扱を成す歟と。左も可有と思はる」(薩長同盟後、海舟日記) 「坂本龍馬彼はおれを殺し来た奴だが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後) (土佐大政奉還建白したのは大勢洞察した卓見か、ただその場小策出たためかと問われ)「あれは坂本いたからのこと、土佐はいつも筒井順慶伏見のときも、まったくの日和見をしていた」 「土佐では(人物と言えば坂本龍馬岩崎弥太郎二人だった」 (龍馬西郷大きな釣鐘例え評したことについて)「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」 (同じく龍馬西郷評について)「余、深く此言に感じ実に知言となせり。およそ人を見るの標準自家の識慮に在り。氏が西郷評するの語をもって氏が人物を知るに足らむ。龍馬氏が一世事業如きは既に世の伝承する所、今敢えて賞せず。」 勝逸子「小曾根にいたころ坂本龍馬が『お嬢さんお嬢さん』とよく抱いてくれました龍馬首をふる癖があり胸毛濃かった大久保一翁この度坂本龍馬内々逢い候ところ、同人真の大丈夫と存じ」 「龍馬土佐随一英雄、いはば大西郷抜け目なき男なり」 「(土佐非凡の人なきやの問いに)アルアル、大アリである。坂本龍馬という男がある」 永井尚志後藤(象二郎)よりも一層高大にして、説く所も面白し」(中根雪江丁卯日記』) 高橋泥舟坂本龍馬土佐藩三人の中で一番の人物』、中岡慎太郎格別に有志ではない』」(坂本中岡間崎哲馬に対して人物評価足利学校『公雑筆記』) 伊藤博文坂本龍馬勝安房海舟)の門人で、壮年有志一個傑出であって彼方へ説き、こなたへ説きして何処へ行って容れられる方の人間であった」(『伊藤直話120頁) 井上馨薩長聯合周旋根本坂本龍馬石川誠之介である。此二人薩長互に相反目して居つては到底幕府勢力顛覆して、大政朝廷返すなどと云ふことは出来ぬと云ふ論であって頻りに薩長の間を往来し漸々遊説したのである、それが薩長聯合の源因となった山県有朋徳川氏末にあたり薩長相疑う。土州名士坂本龍馬以為らく、これ国家の利にあらざるなりと。すなわち二藩連合の説を建てて、これを薩藩の西郷吉之助謀る三吉慎蔵過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ず様のこともなく至極おとなし人なり容貌一見すれば豪気見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力極めて大なり伊藤九三「顔に七陽の星が降っている人」 小田村素太郎私の旅館龍馬来て貴様願いたいが、私はこういう考えを持っているからということであった。それが薩長媾和開始であった大山巌諸藩有志の士東奔西走王事鞅掌就中坂本龍馬中岡慎太郎二君は最も大義明にして国勢挽回せんことを謀り、我薩摩諸先輩交際殊に浅からさりし。想う大政維新の基する所に君が長藩諸老と我薩藩諸老先輩との間に周旋尽し疑団氷解し二藩協同国事努むるも至らしめたるの労に因らずんばあらず」 井上良馨「その風貌云えば自分坂本伏見避難の時は、遭難の場所より京都薩摩藩邸まで坂本護送した一人であった。自分高知行きたる時は、坂本同船であったゆえによく覚えて居るが、丈高く、黙々多く語らず、しかもなんとなく人に敬慕されるようなところがあって、まあちょっと島村速雄似た男であったよ」 大浦兼武坂本氏如き誠忠の士、常に我が邦を冥護するにあらざるを知らんや(京都東山の贈正四位坂本龍馬忠魂碑吉井幸蔵ピストルは、その時代のもとしてはかなり新式のものらしく、それにピストルの方釣りとは比較にならないうまかった」(新婚旅行時) 横井小楠坂本君、君は考え一つ違えば乱臣賊子になる恐れがあるご注意あれ」 由利公正「(龍馬歌声は)其の声調頗る妙であった」 関義臣坂本は単に志士論客をもって見るべき人物ではない。また頗る経済的手腕富み百方金策従事し資本募集して汽船帆船買い求め航海術実地演習かたわら他の商人の荷物運搬し、その資金によって、ほぼ同志生活費産出することが出来た。全く龍馬才物である」(関義臣回顧談海援隊回顧』) 「龍馬風采躯幹五尺八寸達しデップリ肥って筋肉逞しく顔色鉄の如く、額広く始終衣服の裾をダラリ開けて胸を露して居た一説に、母親が解任中、黒猫愛していた所から、それにあやかったのであろう背中うじゃうじゃ毛が生えて居たので、どんな暑い日でも、肌を脱いだことが無い。人と共に入浴もしない一切人に背は見せなかったというが、わしもそこまで知らぬ何しろ顔に黒子多く眼光爛々として人を射、随分恐い顔つきじゃった平生は極めて無口じゃが、真に卓励風発の概があった。その部下御すること頗る厳正で同志中に、人の妻を犯したものがあれば、必ず割腹させる。水夫頭の三吉なるもの暴行働いた時など、彼は直ち斬って捨てた。その威信あたかも諸侯如き観があった。そうかと思うと隊士などを率いて玉川花月などへ登楼し、平生無口に似合わず盛んに流行歌など唄う。(中略龍馬は顔に似合わぬ朗々玉を転ばすような可愛い声で『障子開ければ紅葉の座敷…』と、例のヨイショ節を能く唄ったよさこい節その本場だけに却々、旨いもんじゃった。(中略龍馬小事齷齪せず、一切辺幅飾らず、人との交際頗る温厚厭味云うもの一点もなく、婦人馴れ童子親しむ。相手の話を黙って聞き『否』とも『応』とも何とも言わず散々人に饒舌らして置いて後に『さて拙者の説は』と諄々と説き出し縷々数百千言、時々滑稽交え、自ら呵々として大笑する誠に天真愛嬌であった。国を出づ時に父母より訓戒の辞を書して与えられたのを丁寧に紙に包み上に『守』の一字書き加え、袋に入れて常に懐中にしたなどは豪宕にして、而も赤子如く愛すべき所があった」(『実録維新十傑第九巻下山尚 氏状貌雄偉眉間黒子ある。風采閑雅音調晴朗一見凡夫に非るを知る」(『下山尚述記西南紀行』「龍馬越前藩下山尚ニ大政返上策ヲ説ク」) 香川敬三剣客航海学の志あり」 住谷寅之介龍馬誠実可也人物併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後) 「頗る可愛人物也」 東久世通禧龍馬面会偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前。『東久世伯爵公用雑記』) 尾崎三良「其頃坂本等の評判高くなり、其頃散じ紙の新聞様のものを時々発行することがある。それを見ると、今度坂本竜馬海援隊壮士三百人連れて上つと書いてある実際我々瘠士が僅か五、六人であると大い笑ひたり」 「あの人経済の方に眼を着けておった人」 大隈重信伊藤(博文)に負けた事など問題ではないが、阪本偉かった維新志士等のうちで偉いと思う者は大していなかったが阪本だけには頭が下がった」 陸奥宗光龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩維新前新政府役割定めたる際、龍馬世界海援隊云々と言えり。此の時、龍馬西郷より一層大人物のように思われき」 「坂本近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見議論高き、その他人を誘説、感得するの能に富める同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき。彼、もとより土佐藩一浪士のみ。(中略薩長二藩の間を聯合せしめ、土佐を以て之に加わり三角同盟作らとしたるは、坂本策略にして、彼は維新中の魯粛よりも、更らに多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛情実、行がゞり、個人的思想打破して、呉蜀の二帝同盟せしめたるに止る坂本至りては、一方に於ては薩長土間に蟠りたる恩怨融解せしめて幕府に抗対す一大勢力起こさんとすると同時に直ち幕府内閣につき、平和無事の間に政権京都奉還せしめ、幕府をして諸侯率いて朝延に朝し事実に於て太政大臣たらしめ、名に於て諸侯を平等の臣属たらしめ以て無血革命遂げんと企てぬ」 徳富一敬坂本白の琉球絣単衣に鍔細の大小差し、色の真っ黒い大男至ってゆったりと物を言うであった」(『蘆花全集第三巻所収青山白雲」) 吉田健撃剣坂本氏富田鉄之助先生勝海舟)に度々あって話したものは坂本けだった薩長連合案などは先生の説だったろうな」 時田少輔龍馬東西奔走にて、薩の意を長に、長の意を薩に告く、遂に御取結に相成」(薩長同盟について。慶応二年二月二日吉川経幹周旋紀』) 「龍馬こと先生お世話に相成り候義もこれある由申し居り候」(薩長同盟について。時田少輔木戸寛治宛書簡) 間市太郎「終に薩長合体基本を開く人なり長井長義僕は土州脱走人有名有志之輩、人を不殺無罪之者を御引返し相成、かつ他藩たりとも脱藩人を養い申すべくつもりにて、諸方脱藩人を餌付け、我者になし候策、相見申しそ候。山師、おそろべし、おそろべし」 「(いろは丸の)船将坂本龍馬という脱藩人なれども、かねて高名な議論にて長薩の間に徘徊し、しかし二君には仕えず、ただ皇国のためと唱え周旋おり申し候の為めなら何時でも一命捨てる」 高柳之助彼の才谷梅太郎討幕主唱の魁なる坂本龍馬にして、応答言論存外正直穏当如くなれども中々大胆不適人物」(『南紀徳川史』) 日原素平坂本先生真に柔かに、夫人のみならず何人にも親切であった広瀬丹吉「坂本先生まことに天衣無縫無頓着の人でありましたボー大きなことを言うかと思うと小さいことにも存外気が届いておった」 高木三郎坂本大きな男背中アザがあって毛が生えてね。はあ、いっしょに湯などにも這入りましたから、ヨク知ってます。坂本柔術知らないものですから先生勝海舟)が小さくて胸の所へ、こう小さくくっついた工合は、まあタカにちょっと止まったようで、それは見物未だに忘れられません。坂本は文字ありません三宅四郎「健海翁の妻曰く坂本龍馬さんはサイサイ使いなどに行きてよく見覚えたり姿勢あしく肩を斜に傾けタホウ(撓むこと)で、行く様に見えたり岡上太吉いろんなところからまとまった金が届いてくると、そりゃ使えとばかり皆の前にサッと、ぜんぶ出すもんじゃから、皆が龍馬好いてのう」(長崎にいたころ) 山川須磨龍馬って、嫌な男でしたよ」 信田之助「勝の手紙には坂本剣術中々つかえる、組打上手だと書いてありましたが、さて道場に通して見ると坂本大きな男でした。私は五尺二寸彼の男は五尺九寸で胴も太い。立ち上がると私の口が龍馬乳房のに当たるのです。双方とも若い血気の盛です。しっかりやましょう取組んで見ると組打中々上手だ。(中略)実に偉い元気の男でありました黒川秀波「土藩坂本龍馬と申者、兼ねて名家之由、闇殺に逢候由」(『黒川秀波筆記』) 新谷道太郎書物はあまり読まぬ方であるが、知恵は非常に鋭い人物である」 結城一郎志士と言うより寧ろ策士と言った方の質で、慶喜大政返上決意させたのも表面後藤象二郎と言う事になっているが、その裏には坂本居た中井庄五郎僕は坂本氏の為めなら何時でも一命捨てる」 殿井力(寺田屋お登勢長女)「べつだん人目をはばかるふうもなく現れた坂本さん見て険しい顔お武家が多い昨今『ずいぶんのんきそうなお方だなあ』とみんなして拍子抜けいたしました。それに美男というわけでもないのに、お洒落っぽいところがなんとなくおかしゅうございました。(中略坂本さんときたら絹のお着物黒羽二重の羽織、袴はいつも仙台平時には大胆に玉虫色の袴などをお履きになって一見おそろしくニヤけた風でございましたが、胸がはだけてだらしなくお召しになっているので、せっかくの洒落台無し後のことですが中岡慎太郎さん(この方はまたちっとも構わぬお人でした)が『坂本はなんであんなにめかすのか。武士にはめずらしい男じゃ』と、お首をふりふり何度も不思議がっていらっしゃいました。まず娘の私たち坂本さんなついてしまいました。(中略坂本さん昼と夜とりちがえたような暮らしぶりで、昼間はぐっすり寝込んで夜になりますどこかへ出かけて行かれる、そんな日がしばらく続いたかと思うと、突然何ヶ月もお留守毎日毎日判で押したように規則正しく暮らしております私たちには、まったくわけのわからぬ風来坊のようなお方でした。でも、いつしか私たち坂本さんのお帰り心待ちにするようになっておりました。そしてその気持ちは母も同じようございました。母は坂本さんに対して、ずっと年上の姉か母親の様態度接しておりましたでも、坂本さんが御逗留のとき、いつもと変わらず忙しく立ち動きながらも、母の気持ちはいつも二階にあったようです」 「『瑞夢』という新体詩発表されました。そこであの坂本さんが『死んで護国の鬼となる』と歌われいらっしゃいます生前ずぼらでのんき坊主坂本さんを知る者には『護国の鬼』となられた坂本さん想像しにくうはございますがもしかしたら坂本さんは実はあのころから私ども女子供にはわからないくらいお偉方だったのかもしれないと、弟妹たちと語り合ったものでございます」 「坂本さんは色が黒く眼が光っていてずいぶん恐いお顔でしたが、笑うととてもあいきょうがおありでした。母の目をぬすんでは、妹たちひきつれ私は坂本さんお部屋おしかけしたものですが、坂本さんは『よく来たいいもの見せてやろう』と行季からオモチャのような鉄砲とりだして『これは西洋ピストルというんだ。捕手来たらこれでおどかしてやるきに』とニコニコ笑われました。ある雨降りの夜など、私たちずらりと前に並べてみぶりてぶりよろしく怪談をはじめられるのです。(中略ただでさえ恐い顔をいっそう恐くして両手前にたれ『お化け』と中腰になる、実に凄い。私たちはなかば本気でキャッキャッ』と叫びますそうするときまって母が階段かけ上がってきて、『騒いではいけまへん、なんべん言うておりますやろ。坂本はんも気いつけておくれやす』と説教を始めますが、『なあに構うものか知れたら知れたときのことさ』と取りあわない坂本さんを母がもうムキになって注意するそれは楽し光景ございました。父伊助とは作ることのできなかった家族の団欒のようなものが、そこにはたしかにございましたこの先ずっと父がすわる場所に坂本さんがいてくれたらと、娘心願ったものでしたが、もしかしたらそれは母の願いであったかもしれません岩井徳「坂本さん本当に男らしい方でした好きだったかどうか、オホホホ、いつも詩を吟じながらお帰りなりました岡本之助妻女「いつも無言のままぶらりと入ってきて、用談終わると無言で帰って行く一言会釈もないし、時には憎らしく見えた安田たまき「龍馬さんは六尺豊かな大男優男のように世情では伝えられていますが、背丈中位色も黒く決しトント美少年の方でありませんでした。髪は当時の若い侍の間に流行していた結い方とは違って、たしか総髪で、それが激し撃剣修行のため縮れ上がっていました。刀はいつも短いのを、落し差しにしていましてちょっと見には差しているやら、いないや判らぬ位で、肩も撫で肩で、左肩が少し上がっていました当時若者気風とは何処か違う所があってエラたがらず、威張らず、穏和しい人で、それでいて見識の高い人でした。龍馬さんが京都殺されてから思い出したことですが或日のこと、道場から帰ったわたしの兄が母に向かって『きょう初め見た龍馬左腕には五寸廻りもある大きなアザがある』と語ったが母はこれを聞くと『可愛そう龍馬さんもそれでは剣難の相がある』と言ってその後母は非常にその事心配していました果して龍馬さんは人手倒れました。(中略銅像写真見ましたが顔の工合といい、眉や刀の差し工合といい本人そっくりです」(昭和三年五月二十七日朝日新聞記者藤本尚則のインタビュー答えて) (近江屋養女)すみ「慶応三年十一月十五日でした。もう三日もあれば、殿様大坂から京都へお着きになる。殿様がお着きになれば、拝謁叶うて再び帰参ができ、土佐藩邸お引き取られになるわけで、長々厄介になった。マア喜んでくれ、わしも屋敷帰れるがと、私どもにもお話がございましたが、ちょうどその日殺されたので、いかにもお気の毒でたまりません。品行いたって正しい方で、中岡慎太郎さんなぞが来られて、おい才谷今夜は祇園飲み行こうじゃないか誘いましても、イヤ少し調べ物あるからよそうと、二階閉じこもってばかりいました千葉佐那土佐坂本さん私の家入門してきたのは嘉永六年四月で、坂本さん十九歳私は十六歳乙女でした。坂本さん翌年六月には帰国し安政三年八月にふたたび私の道場参り修行打ち込んでおりました。さらに一年滞在延長許可を得たとかで、引き続いて道場滞在し、父は坂本さん塾頭任じ、翌五年一月には北辰一刀流目録与えましたが、坂本さん目録中に私たち三姉妹の名を書き込むよう頼んでおりました。父は『例のないことだ』と言いながら、満更でもなさそう三姉妹の名を書き込み坂本さん与えました坂本さん二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さん入門したときからずいぶん大人っぽくなり、たくまし青年になっておりました。私も二十一ぽつぽつ縁談の話もありましたが、私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし父も『坂本ならば』と高知坂本家手紙出したうでした。(中略私は心を定めていい縁談をも断り、ただひたすら坂本さん待ちましたが、忘れもしない慶応三年十二月三十一歳になっていた私は坂本さん十一月十五日京都暗殺されたことを知らされました」 楢崎龍「(龍馬伝挿絵見て)この顔は大分似て居ます。頬も、も少し痩せて目は少し角立って居ました。眉の上に大きな痣があって、その外に黒子ポツポツあるので写真綺麗に撮れんのですよ。背にも黒毛一杯生えて居まして、何時も石鹸で洗うのでした。長州伊藤助太夫家内坂本さんは、ふだんきたない風をして居った顔付恐ろし様なんだったが、此間は顔も綺麗に肥え大変立派になって入らっしゃった。きっと死花咲いたのでしょう間もなく没くなられたと云いました。これはのちの話です」 「龍馬は、それはそれは妙な男でした。丸で人さんとは一風違って居たのです。少しでも間違った事はどこまでも本を糺さねば承知せず、明白にあやまりさえすれば直にゆるして呉れまして、此の後斯く斯くねばならぬぞと、丁寧に教えて呉れました。衣服なども余り綺麗にする機嫌が悪いので、自分も垢づいた物ばかり着居りました。一日縦縞単物をきて出て戻りには白飛白立派なのを着て来ましたから、誰れのと問うたら、己れ単衣誰か取って行ったから、おれは西郷から此の衣物貰って来たと云いました」 「龍馬酒量量り兼ねる」 「龍馬は詩を作らなかったのです」 「坂本ハキハキしたことが好きで、私がどんなことをしたって決して叱るようなことはなかったのです」 「龍馬中岡河原町殺された聞き西郷怒髪天を衝く形相凄まじく、後藤捕えて『おい後藤貴様苦情言わず土佐屋敷へ入れて置いたら、こむな事にならないのだ。全体土佐奴等薄情でいかん』と怒鳴りつけられて後藤苦い顔をし『いや、苦情云っ訳ではない。実はそこにその色々』、『何が色々だ。面白くも無い、如何だ。貴様片腕無くして落胆したろう。土佐薩摩尋ねてもほかに、あの位の人物は無いわ。ええ惜しい事をした』と流石の西郷悔し泣き泣いたそうです今井信郎策士海援隊率いて居た。どうして中々きれたものです。しかし私は坂本なんと云う奴は幕府のためにもならねば、朝廷の御ためにもなるものではない。只事好んで京都騒がせる悪漢ゆえ『是非、斬って仕舞ねばならぬ』とは思いましたが、向う大勢だから、此方同志をつのろうと云うので、よくよく相談なぞ致しました。さて何れ坂本何処に居るのか少しも解りませんので(中略)しかし幸いにも不図したことから薬師に居る才谷云うのが坂本だと云うことを確かめましたから、いよいよ殺って仕舞うことにきめました」 「土佐恐るる足らぬ一人坂本恐ろしかりき」

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同時代

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