だい‐くういじだい〔‐クウヰジダイ〕【大空位時代】
大空位時代
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大空位時代(だいくういじだい、ラテン語: Interregnum)は、神聖ローマ帝国で王権が不安定であった時代(空位時代)。期間は1250年[1]、1254年[2]または1256年[3]から1273年[1][2]まで。この時期にローマ王(ドイツ王)を世襲する有力な家門はなく、権力の真空が生じた。そこで、選帝侯など有力諸侯が帝国の直轄領を蚕食し、帝国の権利の多くを奪った。彼らはライン都市同盟までも分解し、影響力を極端に増した。
- 1 大空位時代とは
- 2 大空位時代の概要
- 3 参考文献
大空位時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:30 UTC 版)
大空位時代(1254年 - 1273年)は、その名とは違い空位ではなかった。 肖像画名前(家門)在位(生没年)国王選出皇帝戴冠備考紋章 ヴィルヘルム(ホラント家) 1234年 - 1256年(1227年/1228年 - 1256年) 1247年/1248年 - リヒャルト(コーンヴァリス(プランターゲネット)家) 1257年 - 1272年(1209年 - 1272年) 1257年 - イングランド王ジョン(欠地王)の子コーンウォール伯 アルフォンス(ブルグント(イフレーア)家) 1257年 - 1275年(1221年 - 1284年) 1257年 - カスティーリャ王 -
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大空位時代
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「大空位時代」を参照 画像名前家族国王選出皇帝戴冠在位終了日備考 ハインリヒ・ラスペ テューリンゲン 1246年5月22日 — 1247年2月16日 フリードリヒ2世の対立王、ハインリヒ4世の来孫 ヴィルヘルム・フォン・ホラント ホラント 1247年10月3日 — 1256年1月28日 1247年から1254年まで、フリードリヒ2世とコンラート4世の対立王 リチャード・オブ・コーンウォール プランタジネット家 1257年1月13日 — 1272年4月2日 フリードリヒ2世の義弟、カスティーリャ王アルフォンソ10世の対立王。実権を持たなかった カスティーリャ王アルフォンソ10世 ブルゴーニュ家 1257年4月1日 — 1275年 フィリップの孫。リチャード・オブ・コーンウォールの対立王。実権を持たず、後にルドルフ1世に反対されて1275年に請求を取り下げた。1284年に死去
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大空位時代
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詳細は「大空位時代」を参照 ホーエンシュタウフェン朝の断絶後、「大空位時代」の時期に帝国の直轄領および諸権利は著しく減少し、「大空位時代」直後のルドルフ1世も国王位の世襲に失敗したために、以後歴代の国王は主として自身の家門所領に頼ることとなる。したがってルドルフ1世以降の国王および皇帝は、王権あるいは帝権の強化より自身の家門勢力の拡大を政策目標とするようになり、「家門王権(Hausmachtkönigtum)」の時代が始まった。また大空位時代後には、フランス王権に対して優位を維持することはもはやできなくなっていた。
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大空位時代
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詳細は「大空位時代」を参照 フリードリヒ2世が死去した1250年(またはコンラート4世が死去した1254年、あるいはヴィルヘルム・フォン・ホラントが死去した1256年)からハプスブルク家のルドルフ1世が国王に選出された1273年までの期間を大空位時代(Interregnum)と呼ぶ。原語を直訳すると「王権の空いた期間」であり、王はいたものの権力がなかったという意味である。弱小貴族や非ドイツ人が王として選出されたが、神聖ローマ帝国に現実的な影響を及ぼすことはできなかった。この選挙の際にマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯(プファルツ)、ブランデンブルク辺境伯、ザクセン大公、そしてボヘミア王といった、後に選帝侯(Kurfürst)と呼ばれるグループが現れた。 ヴィルヘルム・フォン・ホラントは「神聖ローマ帝国」(Imperium Romanum Sacrum)の国名を初めて用いた王だった。しかし実態としては弱小地方領主の域を出ない有名無実の王だった。1247年に教皇派によって20歳で対立王に選出されるが、ホーエンシュタウフェン朝との戦いに自ら勝つことは出来なかった。1254年にシュタウフェン朝最後の王コンラート4世が死去したことで唯一のドイツ王となったが、依然として王としての権力はなかった。名ばかりの単独王となった2年後、ヴィルヘルムは1256年のフリースラント遠征中に28歳で戦死してしまう。1257年に教皇派であるプファルツ、ケルンそしてマインツの3人の選挙人は後継国王をもはやドイツ諸侯から選ぶことすらしなかった。彼らが推戴したのは46歳のコーンウォール伯リチャード(イングランド王ヘンリー3世の弟)だった。 リチャードも神聖ローマ帝国に王権をふるうことはできなかった。王に選出された数ヵ月後には皇帝派(トリーア、ブランデンブルク、ザクセン、ボヘミア)が対立王としてローマ王フィリップの孫でカスティーリャ王のアルフォンソ10世を選出し、早くも正当性が怪しくなった。リチャードはアーヘンで正式に戴冠したもののドイツにはほとんど不在だった。アルフォンソ10世に至ってはスペインに留まって一度もドイツに入ることがなかった。このため、国王がドイツにいない状態が長期化した。帝国の秩序は乱れた。諸侯は特権獲得と領域形成を強固にして、より一層自立した統治者と化した。諸侯の勢力に対し、ドイツ西部の諸都市がライン同盟を結成するといった現象も起こった。また、ホーエンシュタウフェン朝を滅ぼしてシチリア王国を乗っ取ったシャルル・ダンジューが荒廃した神聖ローマ帝国をも狙い、甥のフランス王フィリップ3世を帝位につける野望を抱いた。1272年、リチャードが全く実権の無いローマ王位を抱えたまま63歳で死去した。諸侯は外国の干渉を防ぎつつ強力な王の誕生を防ぐため、南シュヴァーベンの小領主に過ぎないハプスブルク家のルドルフ1世を国王に選出した。ルドルフ1世は当時としては高齢の50歳であり、その治世はすぐに終わるはずであった。
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