イングランド‐おうこく〔‐ワウコク〕【イングランド王国】
イングランド王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 15:41 UTC 版)
- イングランド王国
- Kingdom of England
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←927年 - 1707年 → (国旗) (国章) - 国の標語: Dieu et mon droit
神と我が権利
1700年のイングランド王国-
公用語 古英語
アングロ=ノルマン語
フランス語
中英語
近代英語首都 ウィンチェスター
ロンドン- 国王
-
927年 - 939年 アゼルスタン(初代) 1016年 - 1035年 クヌート1世 1066年 - 1087年 ウィリアム1世 1485年 - 1509年 ヘンリー7世 1625年 - 1649年 チャールズ1世 1702年 - 1707年 アン(最後) - 面積
-
1542年以前 145,000km² 1542年以降 151,000km² - 人口
-
1281年推定 2,600,000人 1542年推定 3,000,000人 1707年推定 5,750,000人 - 変遷
-
成立 927年 デーン朝成立 1016年 ノルマン朝成立(ノルマン・コンクエスト) 1066年 チャールズ1世の処刑 1648年 ステュアート朝復興 1660年 スコットランド王国と合同 1707年
通貨 スターリング・ポンド 現在 イギリス
ブリテンの歴史 | |||||||||||
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アイルランド | イングランド | スコットランド | |||||||||
先史時代 | |||||||||||
ゲール人 | ブリタンニア | ピクト人 | |||||||||
オニール時代 | 七王国 | ダルリアダ | |||||||||
ノルマン朝イングランド王国 | アルバ王国 | ||||||||||
プランタジネット朝 (国名同上。アンジュー帝国とも) | |||||||||||
独立戦争 | |||||||||||
百年戦争 | |||||||||||
ステュアート朝 | |||||||||||
薔薇戦争 | |||||||||||
テューダー朝 | |||||||||||
アイルランド王国 | イングランド王国 | スコットランド王国 | |||||||||
(国名同上) | (国名同上) | (国名同上) | |||||||||
清教徒革命、政教分離 | |||||||||||
イングランド共和国 | |||||||||||
王政復古 | |||||||||||
ステュアート朝(復興) | |||||||||||
アイルランド王国 | イングランド王国 | スコットランド王国 | |||||||||
(国名同上) | 合同法(1707年) | ||||||||||
グレートブリテン王国 | |||||||||||
ハノーヴァー朝 | |||||||||||
(国名同上) | (国名同上) | ||||||||||
合同法(1800年) | |||||||||||
グレートブリテン及びアイルランド連合王国 | |||||||||||
サクス=コバーグ=ゴータ朝、ウィンザー朝 | |||||||||||
(国名同上) | |||||||||||
英愛条約 | |||||||||||
アイルランド自由国 | イギリス | ||||||||||
アイルランド憲法公布による改名 | |||||||||||
アイルランド | |||||||||||
関連項目:イギリスの歴史、ウェールズの歴史 | |||||||||||
イングランド王国(イングランドおうこく、英: Kingdom of England)は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家である。ウェセックス王エグバートの825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。
スコットランド王であったステュアート朝のジェームズ6世が1603年に王位を兼ねて以来(イングランド王ジェームズ1世)、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年の合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。
歴史
初期
ウェセックス王国がイングランドの覇権を握り、アゼルスタンが927年にイングランド全土を統一して成立した。
デンマークのヴァイキングであるデーン人の侵入が活発で、1016年にエドマンド2世はデンマーク王国のクヌートと奮戦したが、エセックスのアッサンダンの戦いで決定的な敗北を喫した。戦いの後に両王は和平交渉をし、エドマンドがウェセックスを、クヌートはテムズ川の北を領有することになった。この時同時に、どちらかが死んだ時は生きている方に領土を譲るという同意により、1016年にクヌートがイングランド王に即位し、征服王朝であるデーン朝(北海帝国)が成立した。
ノルマン朝
1042年にクヌートの息子カヌート3世が死去すると、エドマンド2世の異母弟エドワード懺悔王が即位してサクソン系の王朝が復活したが、最後のサクソン系の王ハロルド2世が1066年にヘイスティングズの戦いでノルマンディー公ギヨーム2世に敗れて戦死した。1066年のクリスマスにギヨーム2世はウィリアム1世として即位し[1]、ノルマン朝が成立した。
ヘンリー1世は娘のマティルダを後継者に指名したが、1135年に甥のスティーヴンがロンドン市民と自らの弟ウィンチェスター司教ヘンリーにカンタベリー大司教を説得させ、彼等の推戴を受けてイングランド王に即位した。その後、マティルダとの間で長く内戦が続いた(無政府時代)。最終的に、スティーヴンの終身王位の承認と引き換えにマティルダの息子のアンジュー伯アンリを養子に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。
プランタジネット朝
協定の通り、1154年にアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、プランタジネット朝が成立した。
ヘンリー2世はフランス王国の国王ルイ7世と対立しながらノルマンディー公位やアンジュー伯領を受け継ぎ、ルイ7世の王妃であったアリエノール・ダキテーヌと結婚して彼女の相続地であるアキテーヌ公領を支配下に入れた。しかし、ジョンの時に大陸領土を喪失し、アキテーヌの中心地であるガスコーニュのみが残った。アキテーヌは元々諸侯の力が強く、彼らは強力なフランス王より弱体化したイングランド王の支配を好んだためとされる。
エドワード1世は1276年以後ウェールズ公国に侵攻し、1282年にはウェールズ大公ルウェリンを滅ぼし、ウェールズ全域を征服した。そして1301年には王太子エドワード(後のエドワード2世)を新しいウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)に封じた。以後、この称号はイングランド王太子に与えられるようになった。このようにして、ウェールズはイングランド王国の一部となった。
百年戦争
エドワード3世は、1328年にカペー朝の断絶を受けてフランス王に即位したヴァロワ朝のフィリップ6世に対して自身のフランス王位継承権を主張した。フィリップ6世はスコットランド王国と呼応して、1337年にアキテーヌ領没収を宣言し、ガスコーニュに軍を進めたため、エドワード3世はフランスに宣戦布告した。これにより百年戦争が開始された。1346年、ノルマンディーから上陸したイングランド軍はエドワード黒太子の活躍もあり、クレシーの戦いでフランス軍に大勝した。また、1356年にはポワティエの戦いでもフランス軍に勝利した。1360年には両国の和議が成立し、エドワード3世はフランス王位継承権を放棄する代わりにガスコーニュ、アキテーヌ、カレー、ポワトゥー、ギーヌなどの広大な領土を獲得した。
その後、シャルル5世の巻き返し、ペストの流行による国内の疲弊もあって、カレー、ボルドー、バイヨンヌを除いたフランス領土を失い、1375年のブリュージュ(ブルッヘ)の和議によってイングランド・フランスの戦争はいったん終結した。1376年に黒太子が、1377年にエドワード3世が亡くなった後は孫のリチャード2世が即位したが、リチャード2世はアイルランド遠征から帰還途中、ウェールズとの国境でクーデターを起こした従弟のヘンリー・ボリングブルックに敗れて逮捕され、ボリングブルックがヘンリー4世としてイングランド王に即位し、ランカスター朝が成立した。
1414年、ヘンリー5世はフランス国王シャルル6世に対して、イングランドで反乱を起こしたオワイン・グリンドゥール(オウエン・グレンダワー)に援助していたことへの賠償及び、フランスの派閥のブルゴーニュ派・アルマニャック派のそれぞれに支援を与えていたことへの代償という理由で、領土割譲とフランス王位を要求した。これを拒否したフランスに対し、ヘンリー5世はブルゴーニュ派と組んで長期休戦状態にあった百年戦争を再開し、フランス遠征を行った。1415年にヘンリー5世はアジャンクールの戦いで大勝し、フランス軍主力を壊滅させた。1420年にはヘンリー5世とシャルル6世の娘キャサリン(カトリーヌ)と結婚、両国王の間でトロワ条約が結ばれ、シャルル6世の死後にヘンリー5世がその後継者になるとされた。
1422年にヘンリー5世の子ヘンリー6世がイングランド王位とフランス王位を継いだ。イングランドはブルゴーニュ派と再び提携して、1428年にはアルマニャック派の拠点であったオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。ここを落とせばフランス南部へ一気に侵攻できるはずであったが、ジャンヌ・ダルクらの反撃でオルレアンの包囲を解いて撤退せざるを得なくなった。1435年のアラスの和約でシャルル7世とブルゴーニュ派との和解成立後、シャルル7世率いるフランス軍は着実に勢力を伸ばし、1449年にはルーアンを奪われ、1450年にはフォルミニーの戦いでイングランド軍は敗れてノルマンディーを奪われた。1453年、カスティヨンの戦いの敗北で大陸におけるイングランドの拠点はカレーを残すのみとなり、百年戦争に終止符が打たれ、ヘンリー6世はフランス王位を失った。
薔薇戦争
百年戦争の敗北後、イングランド国内はヘンリー6世支持のランカスター派とヨーク公リチャード支持のヨーク派に分かれて対立を深め、セント・オールバーンズの戦い (1455年)で両派間に火蓋が切られ、薔薇戦争が始まった。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。1459年のブロア・ヒースの戦いに勝利し、王位を目前にしたヨーク公リチャードは、1460年のウェイクフィールドの戦いで戦死した。
ヨーク公リチャードの嫡男エドワードはセント・オールバーンズの戦い (1461年)で勝利し、ヘンリー6世を退位させて国王エドワード4世となり、ヨーク朝を成立させた。しかし、1470年にエドワード4世は側近のウォリック伯リチャード・ネヴィルと対立・追放され、ヘンリー6世が復位した。エドワード4世は1471年に反撃してバーネットの戦いでネヴィルを討ち取り、テュークスベリーの戦いでランカスター派に勝利して復位し、王位は息子エドワード5世が継承したが、議会はエドワード5世の王位継承の無効を議決し、エドワード5世の叔父のグロスター公リチャードが推挙された。グロスター公はリチャード3世としてイングランド王に即位した。
ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年にボズワースの戦いでリチャード3世を撃破し、ヘンリー7世として即位し、テューダー朝が成立した。ヘンリー7世は1486年にエドワード4世の娘でエドワード5世の姉エリザベスと結婚し、ヨーク派の取り込みを進めたが、まだその支配は完全ではなく、ランバート・シムネルが「国王エドワード6世」を称し、リチャード3世の支持者が味方して王位獲得の軍を起こす。しかしシムネルはストーク・フィールドの戦いで敗れ、捕らえられた。こうして薔薇戦争が終結した。
テューダー朝
ヘンリー7世は百年戦争、薔薇戦争で疲弊した諸侯を抑圧して絶対王政を推進し、海外進出にも積極的で、その政策はヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世に受け継がれた。テューダー朝の時代にイングランド国教会が成立した。
1541年、ヘンリー8世が形式的にはアイルランド議会の決議に基づき、それまでの称号であったアイルランド卿に代えてアイルランド王を自称し、ヘンリー8世以後は歴代のイングランド王がアイルランド王の称号を兼ねることとなった。アイルランドは以後イングランドからの入植と支配の強化が進んでいった。
ステュアート朝
1603年のエリザベス1世の死によりヘンリー8世の血筋は絶える。ヘンリー7世の血を引くスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王に迎えられ、イングランドにおけるステュアート朝を創始し、イングランド王国とスコットランド王国は同君連合となった。
ジェームズ1世の跡を継いだチャールズ1世は国教会をスコットランドにも導入しようと試みた。この試みは長老派の勢力が強かったスコットランドにおいて大反発を受けて、大反乱となった。1640年、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった(短期議会・長期議会)。1642年、チャールズ1世は反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の内戦が勃発した(イングランド内戦、清教徒革命)。
内戦は当初は互角、あるいは王党派が優位であったが、オリバー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍で王党派が各地で打ち破られ、1649年にチャールズ1世は公開処刑で斬首され、イングランド・コモンウェルスとなった。この体制は次第にクロムウェルによる軍事独裁政権という状態になり、クロムウェルは1653年に議会を解散させて終身護国卿となった。
しかし1658年にクロムウェルが死去すると、跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルは間もなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろした。長老派が1660年にチャールズ2世を国王に迎えて王政が復古した。チャールズ2世の死後、弟のヨーク公ジェームズがジェームズ2世として即位したが、1688年の名誉革命で亡命し、議会はメアリー2世とオラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)夫妻を共同国王に指名した。ウィリアム3世は1694年、アイルランド王国を実効支配下に置き、属国とした。
ウィリアム3世が1702年に没すると、アンが即位した。アンは最後のイングランド王国・スコットランド王国の君主であり、ステュアート朝最後の君主でもある。1707年に、イングランド王国とスコットランド王国の合同法が成立し、ジェームズ1世以来100年余りにわたって同君連合を結んできた両国は、正式に統合されてグレートブリテン王国になった。
脚注
- ^ ウエストミンスター寺院の略歴ウエストミンスター寺院 2020年2月22日閲覧
関連項目
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ゲール人 | ブリタンニア | ピクト人 | |||||||||
オニール時代 | 七王国 | ダルリアダ | |||||||||
ノルマン朝イングランド王国 | アルバ王国 | ||||||||||
プランタジネット朝 (国名同上。アンジュー帝国とも) | |||||||||||
独立戦争 | |||||||||||
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ステュアート朝 | |||||||||||
薔薇戦争 | |||||||||||
テューダー朝 | |||||||||||
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清教徒革命、政教分離 | |||||||||||
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(国名同上) | 合同法(1707年) | ||||||||||
グレートブリテン王国 | |||||||||||
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イングランド王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 01:08 UTC 版)
「コールドストリームガーズ」の記事における「イングランド王国」の解説
1660年、王政復古の宣言がされるとモンク将軍は王党派に転じ、後任のジェネラル・アット・シーであるエドワード・モンタギュー(Edward Montagu/後に初代サンドウィッチ伯爵)に対し、艦隊を率いて国王を亡命先のオランダへ迎えに行くよう指示した。エドワード・モンタギューはこの頃地方に隠遁していたが、ロンドンに残していた執事(当時)のサミュエル・ピープスを通じて議会の動向を把握しており、モンクに従ってイングランド艦隊を掌握し、オランダへ向かった。 ”モンクの歩兵連隊”はスコットランドのコールドストリーム(Coldstream)に駐留していたが、スコットランドへ上陸したチャールズ2世と合流し、ロンドン入城に同行した。そのため、現在でも募兵の際はこの時に通ったイングランド側の沿道地域出身者を優先採用している。また、現部隊名の”コールドストリーム”はこの頃付いたあだ名である。 この年、”モンクの騎馬護衛隊”(Monck's Life Guards)が第2(クィーンズ)近衛騎兵隊(2nd(Queen's) Troop of Horse Guards)となった。この騎兵隊は後に他の近衛騎兵隊と統合されてライフガーズ連隊となる。翌1661年、”モンクの歩兵連隊”も近衛連隊となり、”ロードジェネラルズ近衛歩兵連隊”(The Lord General's Regiment of Foot Guards)となった。また、1664年には”コールドストリーム連隊”の兵士500名が海上勤務に転じ、”デューク・オブ・ヨーク・アンド・アルバニー海上歩兵連隊”(Duke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot)が編成された。この連隊はイギリスで初めての艦上勤務を専門とする歩兵部隊であり、イギリス海兵隊の母体となった。 近衛歩兵連隊としては既に、チャールズ2世がウスターの戦い後の1656年にブルッヘで創設した”ロード・ウェントワース近衛歩兵連隊”(Lord Wentworth's Foot Guards/Royal Regiment of Guards)と1660年創立のジョン・ラッセル近衛歩兵連隊(John Russell's Foot Guards)があり、両連隊が1665年に統合されて”近衛歩兵第1連隊”(1st Regiment of Foot Guards)(後のグレナディアガーズ)とされた。しかし、これらの連隊より古い”コールドストリーム連隊”の兵士は、その下位に位置付けられることを認めることが出来なかった。チャールズ2世が”近衛第2連隊”と呼んだところ、”第2”とされることを兵士達が拒否して命令に従わなかったため、モンク将軍の進言に従って”コールドストリーム近衛連隊”と呼んだところ命令に従ったという逸話もある。 モンク将軍が死去した1670年、”近衛歩兵第2連隊”(2nd Regiment of Foot Guards)となったが、”第2”とされる抵抗感から、通称であった”コールドストリーム近衛歩兵連隊”(Coldstream Regiment of Foot Guards)が公式に使われるようになった。そして、この様な経緯から、”Nulli Secundus”(何物の2番目でもない=何物にも劣る事無し)が連隊のモットーとなっている。また、現在でもグレナディアガーズへの対抗意識は強く、イギリス陸軍に於ける連隊序列はグレナディアガーズの次だが、近衛歩兵連隊が整列する際はグレナディアガーズの隣には並ばず、反対側の端に位置する。 イングランド王位に就くためにロッテルダムを出港するチャールズ2世の艦隊。 初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー。 サミュエル・ピープス
※この「イングランド王国」の解説は、「コールドストリームガーズ」の解説の一部です。
「イングランド王国」を含む「コールドストリームガーズ」の記事については、「コールドストリームガーズ」の概要を参照ください。
イングランド王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 10:05 UTC 版)
「BLADESTORM 百年戦争」の記事における「イングランド王国」の解説
エドワード黒太子 (声優:石川英郎) イングランド王国王太子。漆黒の鎧をまとって戦う姿から「黒太子」と呼ばれる。気高く高潔な性格であるため、民衆を巻き込む戦争に対して疑問を持っている。だが、自身の優れた軍才を発揮して祖国の勝利と栄光のために戦い続けた。 チャンドスの台詞によると、史実と異なり百年戦争が初陣のようである。 イングランド王 (声優:佐々木誠二) 黒太子の父である関係からエドワード3世であると思われる。強力なカリスマ性によって国を統率した王である。 フィリッパ (声優:斉藤貴美子) イングランド軍の女将軍。女性ながら極めて物々しい甲冑に身を包み最前線に立って数々の戦果を挙げた。騎士や傭兵といった立場にこだわることなく配下と接するため周囲から厚く信頼されている。 史実では黒太子の母であるが、黒太子絡みの描写は無い。また、王妃であるにも関わらず、作中ではベッドフォード公から誘惑されている。 ジョン・チャンドス (en)(声優:辻親八) 百戦錬磨のイングランド軍の将軍。黒太子に忠誠を誓っており、彼を陰ながら支えている。黒太子が戦場で迷いを見せた時、彼を叱咤することもあり、黒太子を正しき方向へ導く教育係のような役目も担っている。 史実でも騎士道的な人物であったとされオーレの戦いでベルトランを捕らえるなどの戦功を上げている。1369年12月31日にポワトゥー近郊で起きた小競り合いで戦死。 ジョン・タルボット(声優:上田陽司) イングランド軍の将軍。無骨な鎧をまとっているように堅実な戦を得意とし防衛戦においては右に出るものがいないほどである。忠誠心と責任感が強く真面目な性格ゆえ、任務に固執して死地に留まってしまう頑固さも見せてしまうこともある。 史実でも百年戦争末期のイングランド側における重要な将軍。シュルーズベリー伯。ヘンリー6世によってフランス軍総司令官に任命されるが、カスティヨンの戦いで戦死。 ジョン・ファストルフ(声優:服部潤) イングランド軍の将軍。天才的な直観力と機転に優れ、臨機応変な立ち回りで数々の武勲を挙げた。軽薄な性格ゆえに真面目なタルボットから不真面目と見られ、衝突することもあるが決して仲が悪いわけではない。 史実ではジェントリ階級出身の兵士であったとされ、百年戦争末期の多くの戦いに従軍したとされる。なおウィリアム・シェークスピア作の史劇『ヘンリー4世』に登場するフォルスタッフの名前は、彼の名前を綴変えしたものとされていることで有名。 ヘンリー・パーシー(声優:竹本英史) イングランド軍の騎士。縦横無尽に戦場を駆け回る姿から「熱き拍車」と呼ばれている。凄腕の戦士でもあり猛獣のような凶暴さを秘めており、戦場では鬼神のような戦いぶりで多くの敵を葬り去った。 史実においても勇猛で知られランカスター朝の成立に活躍した人物であった。後ヘンリー4世から疎まれたため反乱を起こす(パーシーの反乱)がシュルーズベリーの戦い(英語版)で敗死。ウィリアム・シェークスピア作の史劇『ヘンリー4世』ではハル王子との一騎討ちで討ち取られる。 イアマール (声優:安田美和) 黒太子の側近。元は彼の命を狙う暗殺者だったが、彼の心意気に惹かれ、忠誠を誓うようになった。 ハル (声優:草尾毅) 乱暴者の傭兵。実はイングランドの王族なのだが、本人の自覚は薄い。 ハル(ハル王子)という呼び方はウィリアム・シェークスピア作の史劇『ヘンリー4世』におけるヘンリー5世の呼び名。シェークスピアの劇中において、ハルは仲間と暴れ歩く放蕩息子として描かれている。 リチャード・ビーチャム (声優:私市淳) ハルに付き従い振り回される傭兵(実は上級貴族)。 実在の人物で、史実におけるヘンリー4世、ヘンリー5世(ハル)、そしてヘンリー6世の時代に武勲をあげた第13代ウォリック伯であり、百年戦争やパーシーの反乱に従軍。 マーガレット (声優:神田朱未) ウェールズ出身の傭兵。弓の腕に長け、イングランド軍への参入を希望していたが、門前払いを受けて傭兵となる。後に黒太子に認められ、正式にイングランド軍所属となった。
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イングランド王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 20:46 UTC 版)
「王位継承法 (曖昧さ回避)」の記事における「イングランド王国」の解説
ヘンリー8世1533年王位継承法 (25 Hen. 8 c.22) - 第一継承法。 1533年にエリザベス1世を嫡子、メアリー1世を庶子と定めた法。 1534年王位継承法(英語版) (26 Hen. 8 c.2) - 第一継承法(1533年王位継承法)の順守の誓いを要求した法。 1536年王位継承法 (28 Hen. 8 c.7) - 第二継承法。1536年、エリザベス1世とメアリー1世の両方を庶子とした法。 1543年王位継承法 (35 Hen. 8 c.1) - 第三継承法。1543年、エリザベス1世とメアリー1世の両方を嫡子とした法。 ジェームズ1世1603年王位継承法(英語版) (1 Jac. 1 c.1) ウィリアム3世1701年王位継承法(12 and 13 Will 3 c. 2) - イングランドの王位継承者をイングランド国教会の信徒に限定した法。
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イングランド王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/02 05:07 UTC 版)
「幻想世界魔法烈伝 WIZバスター」の記事における「イングランド王国」の解説
黒太子(ブラックプリンス) プリンス・オブ・ウェールズ。イングランド王国の皇子で、ドラゴンスレイヤーを持つ。ダゴンが城を襲撃したさいに駆けつけ、戦いの後は城を守るために残った。 ジョン 騎士団の副団長。ヒゲが特徴。当初は忍の力を疑っていたため、カブトと言い争っていた。
※この「イングランド王国」の解説は、「幻想世界魔法烈伝 WIZバスター」の解説の一部です。
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イングランド王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:23 UTC 版)
「ヴィンランド・サガ」の記事における「イングランド王国」の解説
アングロ・サクソン人の統一王国。9世紀にウェセックス王アルフレッドがそれまでの諸王国を併合してのちは南部のウェセックス地方が王国の中核をなす。首都はウィンチェスター。北部のデーンローを支配するデーン人とは微妙な小康状態を保ってきたが、11世紀初頭のイングランド軍によるデーン人虐殺を機に関係が悪化、その後デーン軍相手に敗北を重ねる。1018年、賢人会議でアングロ・サクソンの王に代わりデンマーク王が推戴され、実質的にデンマーク王国に併合される。
※この「イングランド王国」の解説は、「ヴィンランド・サガ」の解説の一部です。
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「イングランド王国」の例文・使い方・用例・文例
- イングランド王国.
固有名詞の分類
- イングランド王国のページへのリンク