イングランド王国とは? わかりやすく解説

イングランド‐おうこく〔‐ワウコク〕【イングランド王国】


イングランド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 15:41 UTC 版)

イングランド王国
Kingdom of England


927年 - 1707年
国旗国章
国の標語: Dieu et mon droit
神と我が権利

1700年のイングランド王国
公用語 古英語
アングロ=ノルマン語
フランス語
中英語
近代英語
首都 ウィンチェスター
ロンドン
国王
927年 - 939年 アゼルスタン(初代)
1016年 - 1035年クヌート1世
1066年 - 1087年ウィリアム1世
1485年 - 1509年ヘンリー7世
1625年 - 1649年チャールズ1世
1702年 - 1707年アン(最後)
面積
1542年以前145,000km²
1542年以降151,000km²
人口
1281年推定2,600,000人
1542年推定3,000,000人
1707年推定5,750,000人
変遷
成立 927年
デーン朝成立1016年
ノルマン朝成立(ノルマン・コンクエスト1066年
チャールズ1世の処刑英語版1648年
ステュアート朝復興1660年
スコットランド王国と合同1707年
通貨スターリング・ポンド
現在 イギリス

イングランド王国(イングランドおうこく、: Kingdom of England)は、927年アングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンイングランド全土統一から1707年スコットランド王国との合同まで存在した国家である。ウェセックス王エグバート825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。

スコットランド王であったステュアート朝ジェームズ6世1603年に王位を兼ねて以来(イングランド王ジェームズ1世)、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。

歴史

イングランド王国(1377年)

初期

ウェセックス王国がイングランドの覇権を握り、アゼルスタンが927年にイングランド全土を統一して成立した。

デンマークヴァイキングであるデーン人の侵入が活発で、1016年エドマンド2世デンマーク王国クヌートと奮戦したが、エセックスアッサンダンの戦い英語版で決定的な敗北を喫した。戦いの後に両王は和平交渉をし、エドマンドがウェセックスを、クヌートはテムズ川の北を領有することになった。この時同時に、どちらかが死んだ時は生きている方に領土を譲るという同意により、1016年にクヌートがイングランド王に即位し、征服王朝であるデーン朝(北海帝国)が成立した。

ノルマン朝

1042年にクヌートの息子カヌート3世が死去すると、エドマンド2世の異母弟エドワード懺悔王が即位してサクソン系の王朝が復活したが、最後のサクソン系の王ハロルド2世1066年ヘイスティングズの戦いノルマンディー公ギヨーム2世に敗れて戦死した。1066年のクリスマスにギヨーム2世はウィリアム1世として即位し[1]ノルマン朝が成立した。

ヘンリー1世は娘のマティルダを後継者に指名したが、1135年に甥のスティーヴンがロンドン市民と自らの弟ウィンチェスター司教英語版ヘンリー英語版カンタベリー大司教を説得させ、彼等の推戴を受けてイングランド王に即位した。その後、マティルダとの間で長く内戦が続いた(無政府時代)。最終的に、スティーヴンの終身王位の承認と引き換えにマティルダの息子のアンジュー伯アンリを養子に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。

プランタジネット朝

協定の通り、1154年にアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、プランタジネット朝が成立した。

ヘンリー2世はフランス王国の国王ルイ7世と対立しながらノルマンディー公位やアンジュー伯領を受け継ぎ、ルイ7世の王妃であったアリエノール・ダキテーヌと結婚して彼女の相続地であるアキテーヌ公領を支配下に入れた。しかし、ジョンの時に大陸領土を喪失し、アキテーヌの中心地であるガスコーニュのみが残った。アキテーヌは元々諸侯の力が強く、彼らは強力なフランス王より弱体化したイングランド王の支配を好んだためとされる。

エドワード1世1276年以後ウェールズ公国に侵攻し、1282年にはウェールズ大公ルウェリンを滅ぼし、ウェールズ全域を征服した。そして1301年には王太子エドワード(後のエドワード2世)を新しいウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)に封じた。以後、この称号はイングランド王太子に与えられるようになった。このようにして、ウェールズはイングランド王国の一部となった。

百年戦争

エドワード3世は、1328年カペー朝の断絶を受けてフランス王に即位したヴァロワ朝フィリップ6世に対して自身のフランス王位継承権を主張した。フィリップ6世はスコットランド王国と呼応して、1337年にアキテーヌ領没収を宣言し、ガスコーニュに軍を進めたため、エドワード3世はフランスに宣戦布告した。これにより百年戦争が開始された。1346年ノルマンディーから上陸したイングランド軍はエドワード黒太子の活躍もあり、クレシーの戦いでフランス軍に大勝した。また、1356年にはポワティエの戦いでもフランス軍に勝利した。1360年には両国の和議が成立し、エドワード3世はフランス王位継承権を放棄する代わりにガスコーニュ、アキテーヌ、カレーポワトゥー、ギーヌなどの広大な領土を獲得した。

その後、シャルル5世の巻き返し、ペストの流行による国内の疲弊もあって、カレー、ボルドーバイヨンヌを除いたフランス領土を失い、1375年のブリュージュ(ブルッヘ)の和議によってイングランド・フランスの戦争はいったん終結した。1376年に黒太子が、1377年にエドワード3世が亡くなった後は孫のリチャード2世が即位したが、リチャード2世はアイルランド遠征から帰還途中、ウェールズとの国境でクーデターを起こした従弟のヘンリー・ボリングブルックに敗れて逮捕され、ボリングブルックがヘンリー4世としてイングランド王に即位し、ランカスター朝が成立した。

1414年ヘンリー5世はフランス国王シャルル6世に対して、イングランドで反乱を起こしたオワイン・グリンドゥール(オウエン・グレンダワー)に援助していたことへの賠償及び、フランスの派閥のブルゴーニュ派アルマニャック派のそれぞれに支援を与えていたことへの代償という理由で、領土割譲とフランス王位を要求した。これを拒否したフランスに対し、ヘンリー5世はブルゴーニュ派と組んで長期休戦状態にあった百年戦争を再開し、フランス遠征を行った。1415年にヘンリー5世はアジャンクールの戦いで大勝し、フランス軍主力を壊滅させた。1420年にはヘンリー5世とシャルル6世の娘キャサリン(カトリーヌ)と結婚、両国王の間でトロワ条約が結ばれ、シャルル6世の死後にヘンリー5世がその後継者になるとされた。

1422年にヘンリー5世の子ヘンリー6世がイングランド王位とフランス王位を継いだ。イングランドはブルゴーニュ派と再び提携して、1428年にはアルマニャック派の拠点であったオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。ここを落とせばフランス南部へ一気に侵攻できるはずであったが、ジャンヌ・ダルクらの反撃でオルレアンの包囲を解いて撤退せざるを得なくなった。1435年アラスの和約シャルル7世とブルゴーニュ派との和解成立後、シャルル7世率いるフランス軍は着実に勢力を伸ばし、1449年にはルーアンを奪われ、1450年にはフォルミニーの戦いでイングランド軍は敗れてノルマンディーを奪われた。1453年カスティヨンの戦いの敗北で大陸におけるイングランドの拠点はカレーを残すのみとなり、百年戦争に終止符が打たれ、ヘンリー6世はフランス王位を失った。

薔薇戦争

百年戦争の敗北後、イングランド国内はヘンリー6世支持のランカスター派とヨーク公リチャード支持のヨーク派に分かれて対立を深め、セント・オールバーンズの戦い (1455年)で両派間に火蓋が切られ、薔薇戦争が始まった。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。1459年ブロア・ヒースの戦いに勝利し、王位を目前にしたヨーク公リチャードは、1460年ウェイクフィールドの戦いで戦死した。

ヨーク公リチャードの嫡男エドワードはセント・オールバーンズの戦い (1461年)で勝利し、ヘンリー6世を退位させて国王エドワード4世となり、ヨーク朝を成立させた。しかし、1470年にエドワード4世は側近のウォリック伯リチャード・ネヴィルと対立・追放され、ヘンリー6世が復位した。エドワード4世は1471年に反撃してバーネットの戦いでネヴィルを討ち取り、テュークスベリーの戦いでランカスター派に勝利して復位し、王位は息子エドワード5世が継承したが、議会はエドワード5世の王位継承の無効を議決し、エドワード5世の叔父のグロスター公リチャードが推挙された。グロスター公はリチャード3世としてイングランド王に即位した。

ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年ボズワースの戦いでリチャード3世を撃破し、ヘンリー7世として即位し、テューダー朝が成立した。ヘンリー7世は1486年にエドワード4世の娘でエドワード5世の姉エリザベスと結婚し、ヨーク派の取り込みを進めたが、まだその支配は完全ではなく、ランバート・シムネルが「国王エドワード6世」を称し、リチャード3世の支持者が味方して王位獲得の軍を起こす。しかしシムネルはストーク・フィールドの戦いで敗れ、捕らえられた。こうして薔薇戦争が終結した。

テューダー朝

ヘンリー7世は百年戦争、薔薇戦争で疲弊した諸侯を抑圧して絶対王政を推進し、海外進出にも積極的で、その政策はヘンリー8世エドワード6世メアリー1世エリザベス1世に受け継がれた。テューダー朝の時代にイングランド国教会が成立した。

1541年、ヘンリー8世が形式的にはアイルランド議会の決議に基づき、それまでの称号であったアイルランド卿に代えてアイルランド王を自称し、ヘンリー8世以後は歴代のイングランド王がアイルランド王の称号を兼ねることとなった。アイルランドは以後イングランドからの入植と支配の強化が進んでいった。

ステュアート朝

1603年のエリザベス1世の死によりヘンリー8世の血筋は絶える。ヘンリー7世の血を引くスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王に迎えられ、イングランドにおけるステュアート朝を創始し、イングランド王国とスコットランド王国は同君連合となった。

ジェームズ1世の跡を継いだチャールズ1世は国教会をスコットランドにも導入しようと試みた。この試みは長老派の勢力が強かったスコットランドにおいて大反発を受けて、大反乱となった。1640年、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった(短期議会長期議会)。1642年、チャールズ1世は反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派王党派の内戦が勃発した(イングランド内戦清教徒革命)。

内戦は当初は互角、あるいは王党派が優位であったが、オリバー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍で王党派が各地で打ち破られ、1649年にチャールズ1世は公開処刑英語版で斬首され、イングランド・コモンウェルスとなった。この体制は次第にクロムウェルによる軍事独裁政権という状態になり、クロムウェルは1653年に議会を解散させて終身護国卿となった。

しかし1658年にクロムウェルが死去すると、跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルは間もなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろした。長老派が1660年チャールズ2世を国王に迎えて王政が復古した。チャールズ2世の死後、弟のヨーク公ジェームズがジェームズ2世として即位したが、1688年名誉革命で亡命し、議会はメアリー2世オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)夫妻を共同国王に指名した。ウィリアム3世は1694年、アイルランド王国を実効支配下に置き、属国とした。

ウィリアム3世が1702年に没すると、アンが即位した。アンは最後のイングランド王国・スコットランド王国の君主であり、ステュアート朝最後の君主でもある。1707年に、イングランド王国とスコットランド王国の合同法が成立し、ジェームズ1世以来100年余りにわたって同君連合を結んできた両国は、正式に統合されてグレートブリテン王国になった。

脚注

  1. ^ ウエストミンスター寺院の略歴ウエストミンスター寺院 2020年2月22日閲覧

関連項目


イングランド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 01:08 UTC 版)

コールドストリームガーズ」の記事における「イングランド王国」の解説

1660年王政復古宣言がされるモンク将軍王党派に転じ後任のジェネラル・アット・シーであるエドワード・モンタギューEdward Montagu/後に初代サンドウィッチ伯爵)に対し艦隊率いて国王亡命先オランダへ迎えに行くよう指示したエドワード・モンタギューこの頃地方隠遁していたが、ロンドン残していた執事当時)のサミュエル・ピープス通じて議会動向把握しており、モンクに従ってイングランド艦隊掌握しオランダへ向かった。 ”モンク歩兵連隊”はスコットランドのコールドストリーム(Coldstream)に駐留していたが、スコットランドへ上陸したチャールズ2世合流しロンドン入城同行した。そのため、現在でも募兵の際はこの時に通ったイングランド側の沿道地域出身者優先採用している。また、部隊名の”コールドストリーム”はこの頃付いたあだ名である。 この年、”モンク騎馬護衛隊”(Monck's Life Guards)が第2(クィーンズ近衛騎兵隊(2nd(Queen's) Troop of Horse Guardsとなった。この騎兵隊は後に他の近衛騎兵隊と統合されライフガーズ連隊となる。翌1661年、”モンク歩兵連隊”も近衛連隊となり、”ロードジェネラルズ近衛歩兵連隊”(The Lord General's Regiment of Foot Guards)となったまた、1664年には”コールドストリーム連隊”の兵士500名が海上勤務転じ、”デューク・オブ・ヨーク・アンド・アルバニー海上歩兵連隊”(Duke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot)が編成された。この連隊イギリス初めての艦上勤務専門とする歩兵部隊であり、イギリス海兵隊母体となった近衛歩兵連隊としては既に、チャールズ2世ウスターの戦い後の1656年ブルッヘ創設したロード・ウェントワース近衛歩兵連隊”(Lord Wentworth's Foot Guards/Royal Regiment of Guards)と1660年創立ジョン・ラッセル近衛歩兵連隊(John Russell's Foot Guards)があり、両連隊1665年統合されて”近衛歩兵第1連隊”(1st Regiment of Foot Guards)(後のグレナディアガーズ)とされた。しかし、これらの連隊より古い”コールドストリーム連隊”の兵士は、その下位位置付けられることを認めることが出来なかった。チャールズ2世が”近衛第2連隊”と呼んだところ、”第2”とされることを兵士達拒否して命令に従わなかったため、モンク将軍進言に従ってコールドストリーム近衛連隊”と呼んだところ命令従ったという逸話もある。 モンク将軍死去した1670年、”近衛歩兵第2連隊”(2nd Regiment of Foot Guards)となったが、”第2”とされる抵抗感から、通称であったコールドストリーム近衛歩兵連隊”(Coldstream Regiment of Foot Guards)が公式に使われるようになった。そして、この様経緯から、”Nulli Secundus”(何物2番でもない何物にも劣る事無し)が連隊モットーとなっている。また、現在でもグレナディアガーズへの対抗意識強くイギリス陸軍に於ける連隊序列グレナディアガーズの次だが、近衛歩兵連隊整列する際はグレナディアガーズの隣には並ばず、反対側の端に位置するイングランド王位に就くためにロッテルダム出港するチャールズ2世艦隊初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューサミュエル・ピープス

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「イングランド王国」を含む「コールドストリームガーズ」の記事については、「コールドストリームガーズ」の概要を参照ください。


イングランド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 10:05 UTC 版)

BLADESTORM 百年戦争」の記事における「イングランド王国」の解説

エドワード黒太子声優石川英郎) イングランド王国王太子漆黒の鎧をまとって戦う姿から「黒太子」と呼ばれる気高く高潔な性格であるため、民衆巻き込む戦争に対して疑問持っている。だが、自身優れた軍才を発揮して祖国勝利栄光のために戦い続けた。 チャンドスの台詞によると、史実異なり百年戦争初陣のようである。 イングランド王声優佐々木誠二黒太子の父である関係からエドワード3世であると思われる強力なカリスマ性によって国を統率した王である。 フィリッパ声優斉藤貴美子イングランド軍の女将軍。女性ながら極めて物々しい甲冑に身を包み最前線立って数々戦果挙げた騎士傭兵といった立場にこだわることなく配下接するため周囲から厚く信頼されている。 史実では黒太子の母であるが、黒太子絡み描写は無い。また、王妃であるにも関わらず作中ではベッドフォード公から誘惑されている。 ジョン・チャンドス (en)(声優辻親八百戦錬磨イングランド軍の将軍黒太子忠誠誓っており、彼を陰ながら支えている。黒太子戦場迷い見せた時、彼を叱咤することもあり、黒太子正しき方向へ導く教育係のような役目担っている史実でも騎士道的人物であったとされオーレの戦いベルトラン捕らえるなどの戦功上げている。1369年12月31日ポワトゥー近郊起きた小競り合い戦死ジョン・タルボット声優上田陽司) イングランド軍の将軍無骨な鎧をまとっているように堅実な戦を得意とし防衛戦においては右に出るものがいないほどである。忠誠心責任感強く真面目な性格ゆえ、任務固執して死地に留まってしまう頑固さ見せてしまうこともある。 史実でも百年戦争末期イングランド側における重要な将軍シュルーズベリー伯ヘンリー6世によってフランス軍総司令官任命されるが、カスティヨンの戦い戦死ジョン・ファストルフ声優服部潤イングランド軍の将軍天才的な直観力機転優れ臨機応変立ち回り数々武勲挙げた軽薄な性格ゆえに真面目なタルボットから不真面目と見られ衝突することもあるが決して仲が悪いわけではない史実ではジェントリ階級出身兵士であったとされ、百年戦争末期多く戦い従軍したとされる。なおウィリアム・シェークスピア作の史劇ヘンリー4世』に登場するフォルスタッフの名前は、彼の名前を綴変えしたものとされていることで有名。 ヘンリー・パーシー声優竹本英史イングランド軍の騎士縦横無尽戦場駆け回る姿から「熱き拍車」と呼ばれている。凄腕戦士でもあり猛獣のような凶暴さ秘めており、戦場では鬼神のような戦いぶり多くの敵を葬り去った史実において勇猛知られランカスター朝成立活躍した人物であった。後ヘンリー4世から疎まれたため反乱を起こすパーシー反乱)がシュルーズベリー戦い英語版)で敗死ウィリアム・シェークスピア作の史劇ヘンリー4世』ではハル王子との一騎討ち討ち取られるイアマール声優安田美和黒太子側近。元は彼の命を狙う暗殺者だったが、彼の心意気惹かれ忠誠を誓うようになったハル声優草尾毅乱暴者傭兵。実はイングランド王族なのだが、本人自覚は薄い。 ハルハル王子)という呼び方ウィリアム・シェークスピア作の史劇ヘンリー4世』におけるヘンリー5世呼び名シェークスピア劇中において、ハル仲間暴れ歩く放蕩息子として描かれている。 リチャード・ビーチャム声優私市淳ハル付き従い振り回される傭兵(実は上級貴族)。 実在人物で、史実におけるヘンリー4世ヘンリー5世(ハル)、そしてヘンリー6世時代武勲をあげた第13代ウォリック伯であり、百年戦争パーシー反乱従軍マーガレット声優神田朱未ウェールズ出身傭兵。弓の腕に長けイングランド軍への参入希望していたが、門前払い受けて傭兵となる。後に黒太子認められ正式にイングランド所属となった

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イングランド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 20:46 UTC 版)

王位継承法 (曖昧さ回避)」の記事における「イングランド王国」の解説

ヘンリー8世1533年王位継承法 (25 Hen. 8 c.22) - 第一継承法1533年エリザベス1世嫡子メアリー1世庶子定めた法。 1534年王位継承法英語版) (26 Hen. 8 c.2) - 第一継承法1533年王位継承法)の順守誓い要求した法。 1536年王位継承法 (28 Hen. 8 c.7) - 第二継承法1536年エリザベス1世メアリー1世両方庶子とした法。 1543年王位継承法 (35 Hen. 8 c.1) - 第三継承法1543年エリザベス1世メアリー1世両方嫡子とした法。 ジェームズ1世1603年王位継承法英語版) (1 Jac. 1 c.1) ウィリアム3世1701年王位継承法12 and 13 Will 3 c. 2) - イングランド王位継承者イングランド国教会信徒限定した法。

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イングランド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/02 05:07 UTC 版)

幻想世界魔法烈伝 WIZバスター」の記事における「イングランド王国」の解説

黒太子ブラックプリンスプリンス・オブ・ウェールズ。イングランド王国の皇子で、ドラゴンスレイヤーを持つ。ダゴンが城を襲撃したさいに駆けつけ戦いの後は城を守るために残ったジョン 騎士団の副団長ヒゲ特徴当初は忍の力を疑っていたため、カブトと言い争っていた。

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イングランド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:23 UTC 版)

ヴィンランド・サガ」の記事における「イングランド王国」の解説

アングロ・サクソン人統一王国9世紀ウェセックスアルフレッドそれまで諸王国を併合してのちは南部ウェセックス地方王国中核をなす。首都ウィンチェスター北部デーンロー支配するデーン人とは微妙な小康状態保ってきたが、11世紀初頭イングランド軍によるデーン人虐殺機に関係が悪化その後デーン相手敗北重ねる。1018年賢人会議アングロ・サクソンの王に代わりデンマーク王推戴され実質的にデンマーク王国併合される

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