名誉革命とは? わかりやすく解説

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めいよ‐かくめい【名誉革命】


名誉革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/01 13:27 UTC 版)

名誉革命(めいよかくめい、: Glorious Revolution)は、1688年から1689年にかけて、ステュアート朝イングランドで起こったクーデター事件である。イングランド国王ジェームズ2世スコットランド国王としてはジェームズ7世)が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)[注釈 1]がイングランド国王に即位した。これにより「権利の章典」が発布された。


注釈

  1. ^ この項目にたびたび登場するウィリアムとウィレムは、同一人物の英語名とオランダ語名である。

出典

  1. ^ 長谷川輝夫大久保桂子土肥恒之著『世界の歴史17-ヨーロッパ近世の開花』(中央公論新社)
  2. ^ 『イギリス史2』P251 - P254、『スイス・ベネルクス史』P260 - P264、『イギリス革命史(上)』P254 - P261、『イギリス革命史(下)』P16 - P41。
  3. ^ 『イギリス革命史(下)』P41 - P56。
  4. ^ 『イギリス革命史(下)』P56 - P79。
  5. ^ 『イギリス史2』P255、『スイス・ベネルクス史』P264 - P265、『イギリス革命史(下)』P79 - P98。
  6. ^ 『イギリス史2』P255 - P257、『スイス・ベネルクス史』P265 - P266、『イギリス革命史(下)』P99 - P116。


「名誉革命」の続きの解説一覧

名誉革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 16:10 UTC 版)

トーリー党 (イギリス)」の記事における「名誉革命」の解説

トーリージェームズ即位認めたのは、彼らが王党派であったこと以上にジェームズにも嫡子がおらず、カトリックの彼が即位したとしても、それはジェームズの1代限りで終わるという諦めが在ったからである。当初ジェームズ2世現状維持約束したためトーリー党過半数議会安堵モンマスの反乱すぐさま鎮圧され平穏な治世となるはずだった。ところが、カトリックの王ジェームズ2世反乱後常備軍解散せず、カトリック保護政策打ち出して1687年翌年信仰自由宣言非国教徒カトリック教徒保護宣言腹心カトリック教徒要職取り立て、兄と同じく地方への選挙工作行い、既にイングランドでは時代遅れになりつつあった絶対王政的な態度をとり始めた。しかし、これにもトーリーホイッグともにジェームズ2世の1代限り諦めるしかなかったのである。 ところが1688年ジェームズ2世王妃メアリー王子ジェームズ生まれると事態一変しジェームズ2世の後もカトリックの王が即位する可能性出てきてしまった。ここにジェームズ2世即位応じたトーリー反対派ホイッグ協力してジェームズ2世イングランドから追い出す画策をはじめる。オランダからジェームズ2世の娘メアリーと夫でジェームズ2世の甥でもあるオランダ総督ウィレム3世招き寄せメアリー2世ウィリアム3世として即位させ、ジェームズ2世とその家族抵抗諦めてフランス亡命させられた。これが名誉革命である。 1689年議会開かれるウィリアム3世メアリー2世王位認められた。トーリー党ジェームズ2世反対していたが、王位尊重立場からジェームズ2世の後の王位変更ためらっていたが、結局妥協してウィリアム3世メアリー2世新国王として認めたまた、ウィリアム3世によって両派から革命功労者である政治家要職取り立てられバランス取ったとなった。しかし、大同盟戦争通じて戦時体制整える必要が出来ると、この期待に応えたのがホイッグ党政治家達であり、議会ホイッグ党逆転して多数派になったこともあり、トーリー党員は政権から排除されジャントー呼ばれるホイッグ党幹部取り立てられ1694年ホイッグ党政権出来上がった終戦後トーリー党巻き返しホイッグ党政権倒れ1700年新たにトーリー党政権成立した大同盟戦争通して戦争対す方針出来上がりホイッグ党積極的に大陸政策支持するようになり、トーリー党反戦的で海上制覇重視するようになっていった。

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名誉革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 16:08 UTC 版)

ホイッグ党 (イギリス)」の記事における「名誉革命」の解説

先の王位継承問題において、トーリーのようにジェームズに対して王位継承認めたグループ存在した理由は、ジェームズもまた嫡子がおらず、カトリックの王もジェームズ1代限りという諦めにも似た妥協存在したためである。カトリックの王ジェームズ2世カトリックに対して保護政策取り、既にイングランドにおいては時代遅れ絶対王政態度を取るが、それもジェームズ2世の1代限り諦めるしかなかった。 しかし1688年ジェームズ2世王妃メアリー王子ジェームズ生む事態一変し次のイングランド王カトリック王として即位する恐れからホイッグトーリー一致団結してジェームズ2世排除する行動をとり始めたオランダからジェームズ2世の娘メアリーと夫であるジェームズ2世の甥のオランダ総督ウィレム3世招き寄せメアリー2世ウィリアム3世として即位させ、ジェームズ2世とその家族抵抗諦めてフランス亡命させられた。これが名誉革命である。 名誉革命後の政権ホイッグ党トーリー党から閣僚登用されたが、1694年ホイッグ党議会多数占めるとトーリー派の政治家更迭代わりにホイッグ党員が補充された。この時に閣僚として登用されホイッグ党政治家ジャントー呼ばれチャールズ・モンタギュージョン・サマーズトマス・ウォートン、エドワード・ラッセルらが中心となって政権取り仕切ったホイッグ党政権大同盟戦争戦費調達必要性から国債制度イングランド銀行創設し戦時体制整え合わせて出版の自由化と議会選挙3年一度実施する法案可決させ、貨幣改鋳行い後の時代大きな影響与えた。しかし戦後トーリー党政府批判展開しホイッグ党政権からは閣僚相次いで辞任していったためホイッグ党弱体化していった。戦争対す方針出来上がりホイッグ党大陸政策推進トーリー党反戦派で海上政策重視していた。

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名誉革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:05 UTC 版)

ジェームズ2世 (イングランド王)」の記事における「名誉革命」の解説

詳細は「名誉革命」を参照 イングランド反カトリック我慢の糸が切れたのは1688年4月、再び信仰自由宣言発して国教会礼拝宣言読み上げるようにという命令下されたであったカンタベリー大主教ウィリアム・サンクロフトら7名の主教連名請願提出し宗教政策再考ジェームズ2世迫ったが、ジェームズ2世主教らの逮捕でこれに応じた。更に6月ジェームズ2世長子ジェームズ・フランシス・エドワード(ジェームズ老僭王)が生まれてカトリック政権が続くであろうことが明白となったジェームズ2世支持基盤であったトーリー鼻白み、かわってホイッグ急進派次第勢い盛り返しつつあり、急進派幾人かが密かにオランダオラニエ公ウィレム3世連絡をとり始めていた。ウィレム3世ジェームズ2世の甥で、娘メアリーの婿でもあった。急進派の間ではカトリック絶対主義強国フランス専制君主ルイ14世と戦うプロテスタント英雄目されており、イングランド王位を引き継がせるには絶好相手であった一方ウィレム3世の側でも、オランダ国力のみでフランスと戦うのは心細く戦略イングランド味方引き入れることが望ましいと考えていた。 両者利害一致し6月30日、後にイモータル・セブンとよばれる7人のプロテスタント貴族シュルーズベリー伯チャールズ・タルボットデヴォンシャー伯ウィリアム・キャヴェンディッシュ、ダンビー伯トマス・オズボーン、ラムリー男爵リチャード・ラムリーロンドン主教ヘンリー・コンプトン、エドワード・ラッセル、ヘンリー・シドニー)がウィレム3世招聘状送り正式にイングランド王として来てほしいと要請した9月にはウィレム3世攻めてくることが明白になり、フランスルイ14世ジェームズ2世援軍申し出たジェームズ2世はこれを断って自前の軍を召集しようとしたが、ジェームズ2世命令聞く部下軍隊はほとんどいなかった。11月5日ウィレム3世アルマダの海戦1588年、対スペイン)を凌ぐ5万軍勢従えて何の抵抗受けず上陸側近ジョン・チャーチル(後のマールバラ公)とサラ・ジェニングス夫妻らほとんどのイングランド貴族ウィレム3世寝返り次女アンジョージ夫妻が彼らの手引きでオランダ軍投降するに至りジェームズ2世は自らの敗北悟って国璽テムズ川投げ捨て逃亡図ったケントで一旦は捕えられたが解放されフランスに再亡命した。この時、ジェームズ2世55歳達していた。 一方歓呼のもとロンドン迎えられウィレム3世は、議会解散であったため仮議会召集し国王即位承認受けた。ここにイングランドウィリアム3世メアリー2世による共同統治始まった(「ウィリアムとメアリー」)。

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名誉革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 07:00 UTC 版)

アン (イギリス女王)」の記事における「名誉革命」の解説

1688年の名誉革命では、姉の夫で従兄でもあるオランダ総督オラニエ公ウィレム3世イングランド上陸すると、ロンドンからサラと共に脱出してウィレム3世のもとに投降した。父が追放された後、姉夫婦メアリー2世ウィリアム3世として共に即位するが、2人に子がなかったので、早くから王位継承者候補目されるようになり、ホワイトホール宮殿一室与えられ、そこで生活した。 しかし1692年ジェームズ2世の元の寵臣であった将軍マールバラ伯ジョン・チャーチルが、旧主ジェームズ極秘裏に通信した疑惑によりロンドン塔投獄された時、マールバラ伯アン友人サラを妻としていたためにアン投獄反対し、ウィリアム3世メアリー2世仲違いした。この事件以降アンメアリー2世絶交状態になり、親交があったサマセット公チャールズ・シーモアエリザベス・シーモア夫妻から借りたロンドン郊外のサイオン・ハウスに引っ越して宮廷から遠ざかったが、メアリー2世1694年死去するウィリアム3世和解セント・ジェームズ宮殿移り住んだ

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名誉革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 21:32 UTC 版)

1689年ジャコバイト蜂起」の記事における「名誉革命」の解説

詳細は「名誉革命」を参照 ジェームズ2世はすぐにネーデルラント連邦共和国プロテスタント勢力などの反対に遭ったジェームズ2世娘婿ウィリアム・オブ・オレンジはイングランドスコットランド王位を得ようとしており、名誉革命でジェームズ2世廃位追放して自身イングランド王ウィリアム3世およびスコットランド王ウィリアム2世として即位したウィリアム3世監督制支持せず、長老派教会が再び復活した

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