めいよ‐かくめい【名誉革命】
名誉革命
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名誉革命(めいよかくめい、英: Glorious Revolution)は、1688年から1689年にかけて、ステュアート朝のイングランドで起こったクーデター事件である。イングランド国王ジェームズ2世(スコットランド国王としてはジェームズ7世)が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)[注釈 1]がイングランド国王に即位した。これにより「権利の章典」が発布された。
- 1 名誉革命とは
- 2 名誉革命の概要
名誉革命
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「トーリー党 (イギリス)」の記事における「名誉革命」の解説
トーリーがジェームズの即位を認めたのは、彼らが王党派であったこと以上に、ジェームズにも嫡子がおらず、カトリックの彼が即位したとしても、それはジェームズの1代限りで終わるという諦めが在ったからである。当初ジェームズ2世は現状維持を約束したためトーリー党が過半数の議会は安堵、モンマスの反乱もすぐさま鎮圧され平穏な治世となるはずだった。ところが、カトリックの王ジェームズ2世は反乱後も常備軍を解散せず、カトリック保護政策を打ち出して1687年と翌年の信仰自由宣言で非国教徒とカトリック教徒の保護を宣言、腹心のカトリック教徒を要職に取り立て、兄と同じく地方への選挙工作を行い、既にイングランドでは時代遅れになりつつあった絶対王政的な態度をとり始めた。しかし、これにもトーリー、ホイッグともにジェームズ2世の1代限りと諦めるしかなかったのである。 ところが1688年、ジェームズ2世の王妃メアリーに王子ジェームズが生まれると事態は一変し、ジェームズ2世の後もカトリックの王が即位する可能性が出てきてしまった。ここにジェームズ2世の即位に応じたトーリーも反対派のホイッグと協力してジェームズ2世をイングランドから追い出す画策をはじめる。オランダからジェームズ2世の娘メアリーと夫でジェームズ2世の甥でもあるオランダ総督ウィレム3世を招き寄せメアリー2世、ウィリアム3世として即位させ、ジェームズ2世とその家族は抵抗を諦めてフランスに亡命させられた。これが名誉革命である。 1689年で議会が開かれるとウィリアム3世とメアリー2世の王位が認められた。トーリー党はジェームズ2世に反対していたが、王位尊重の立場からジェームズ2世の後の王位変更にためらっていたが、結局妥協してウィリアム3世・メアリー2世を新国王として認めた。また、ウィリアム3世によって両派から革命の功労者である政治家が要職に取り立てられ、バランスを取った形となった。しかし、大同盟戦争を通じて戦時体制を整える必要が出来ると、この期待に応えたのがホイッグ党の政治家達であり、議会でホイッグ党が逆転して多数派になったこともあり、トーリー党員は政権から排除されジャントーと呼ばれるホイッグ党の幹部が取り立てられ、1694年にホイッグ党政権が出来上がった。終戦後はトーリー党の巻き返しでホイッグ党政権は倒れ、1700年に新たにトーリー党政権が成立した。大同盟戦争を通して戦争に対する方針も出来上がり、ホイッグ党は積極的に大陸政策を支持するようになり、トーリー党は反戦的で海上制覇を重視するようになっていった。
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名誉革命
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「ホイッグ党 (イギリス)」の記事における「名誉革命」の解説
先の王位継承問題において、トーリーのようにジェームズに対しての王位継承を認めたグループが存在した理由は、ジェームズもまた嫡子がおらず、カトリックの王もジェームズ1代限りという諦めにも似た妥協が存在したためである。カトリックの王ジェームズ2世はカトリックに対しての保護政策を取り、既にイングランドにおいては時代遅れな絶対王政的態度を取るが、それもジェームズ2世の1代限りと諦めるしかなかった。 しかし1688年、ジェームズ2世の王妃メアリーが王子ジェームズを生むと事態は一変し、次のイングランド王もカトリックの王として即位する恐れからホイッグとトーリーは一致団結してジェームズ2世を排除する行動をとり始めた。オランダからジェームズ2世の娘メアリーと夫であるジェームズ2世の甥のオランダ総督ウィレム3世を招き寄せメアリー2世・ウィリアム3世として即位させ、ジェームズ2世とその家族は抵抗を諦めてフランスに亡命させられた。これが名誉革命である。 名誉革命後の政権はホイッグ党・トーリー党から閣僚が登用されたが、1694年にホイッグ党が議会で多数を占めるとトーリー派の政治家が更迭、代わりにホイッグ党員が補充された。この時に閣僚として登用されたホイッグ党の政治家はジャントーと呼ばれ、チャールズ・モンタギュー、ジョン・サマーズ、トマス・ウォートン、エドワード・ラッセルらが中心となって政権を取り仕切った。 ホイッグ党政権は大同盟戦争で戦費調達の必要性から国債制度とイングランド銀行を創設して戦時体制を整え、合わせて出版の自由化と議会選挙を3年に一度実施する法案を可決させ、貨幣改鋳も行い後の時代に大きな影響を与えた。しかし戦後はトーリー党が政府批判を展開し、ホイッグ党政権からは閣僚が相次いで辞任していったためホイッグ党は弱体化していった。戦争に対する方針も出来上がり、ホイッグ党は大陸政策を推進、トーリー党は反戦派で海上政策を重視していた。
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名誉革命
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「ジェームズ2世 (イングランド王)」の記事における「名誉革命」の解説
詳細は「名誉革命」を参照 イングランド反カトリックの我慢の糸が切れたのは1688年の4月、再び信仰自由宣言を発して国教会礼拝で宣言を読み上げるようにという命令が下された時であった。カンタベリー大主教ウィリアム・サンクロフトら7名の主教は連名で請願を提出し、宗教政策の再考をジェームズ2世に迫ったが、ジェームズ2世は主教らの逮捕でこれに応じた。更に6月、ジェームズ2世に長子ジェームズ・フランシス・エドワード(ジェームズ老僭王)が生まれてカトリック政権が続くであろうことが明白となった。 ジェームズ2世の支持基盤であったトーリーは鼻白み、かわってホイッグ急進派が次第に勢いを盛り返しつつあり、急進派の幾人かが密かにオランダのオラニエ公ウィレム3世と連絡をとり始めていた。ウィレム3世はジェームズ2世の甥で、娘メアリーの婿でもあった。急進派の間ではカトリック絶対主義の強国フランスの専制君主ルイ14世と戦うプロテスタントの英雄と目されており、イングランド王位を引き継がせるには絶好の相手であった。一方ウィレム3世の側でも、オランダの国力のみでフランスと戦うのは心細く、戦略上イングランドを味方に引き入れることが望ましいと考えていた。 両者の利害は一致し、6月30日、後にイモータル・セブンとよばれる7人のプロテスタント貴族(シュルーズベリー伯チャールズ・タルボット、デヴォンシャー伯ウィリアム・キャヴェンディッシュ、ダンビー伯トマス・オズボーン、ラムリー男爵リチャード・ラムリー、ロンドン主教ヘンリー・コンプトン、エドワード・ラッセル、ヘンリー・シドニー)がウィレム3世に招聘状を送り、正式にイングランドに王として来てほしいと要請した。 9月にはウィレム3世が攻めてくることが明白になり、フランスのルイ14世はジェームズ2世に援軍を申し出た。ジェームズ2世はこれを断って自前の軍を召集しようとしたが、ジェームズ2世の命令を聞く部下や軍隊はほとんどいなかった。11月5日にウィレム3世がアルマダの海戦(1588年、対スペイン)を凌ぐ5万の軍勢を従えて何の抵抗も受けずに上陸、側近のジョン・チャーチル(後のマールバラ公)とサラ・ジェニングス夫妻らほとんどのイングランド貴族がウィレム3世に寝返り、次女アンとジョージの夫妻が彼らの手引きでオランダ軍に投降するに至り、ジェームズ2世は自らの敗北を悟って国璽をテムズ川に投げ捨て、逃亡を図った。ケントで一旦は捕えられたが解放され、フランスに再亡命した。この時、ジェームズ2世は55歳に達していた。 一方、歓呼のもとロンドンに迎えられたウィレム3世は、議会が解散中であったため仮議会を召集し、国王即位の承認を受けた。ここにイングランドはウィリアム3世・メアリー2世による共同統治が始まった(「ウィリアムとメアリー」)。
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名誉革命
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「アン (イギリス女王)」の記事における「名誉革命」の解説
1688年の名誉革命では、姉の夫で従兄でもあるオランダ総督のオラニエ公ウィレム3世がイングランドに上陸すると、ロンドンからサラと共に脱出してウィレム3世のもとに投降した。父が追放された後、姉夫婦がメアリー2世・ウィリアム3世として共に即位するが、2人に子がなかったので、早くから王位継承者の候補と目されるようになり、ホワイトホール宮殿の一室を与えられ、そこで生活した。 しかし1692年、ジェームズ2世の元の寵臣であった将軍マールバラ伯ジョン・チャーチルが、旧主ジェームズと極秘裏に通信した疑惑によりロンドン塔へ投獄された時、マールバラ伯がアンの友人サラを妻としていたためにアンは投獄に反対し、ウィリアム3世・メアリー2世と仲違いした。この事件以降、アンはメアリー2世と絶交状態になり、親交があったサマセット公チャールズ・シーモアとエリザベス・シーモア夫妻から借りたロンドン郊外のサイオン・ハウスに引っ越して宮廷から遠ざかったが、メアリー2世が1694年に死去するとウィリアム3世と和解、セント・ジェームズ宮殿に移り住んだ。
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名誉革命
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「1689年ジャコバイト蜂起」の記事における「名誉革命」の解説
詳細は「名誉革命」を参照 ジェームズ2世はすぐにネーデルラント連邦共和国のプロテスタント勢力などの反対に遭った。ジェームズ2世の娘婿ウィリアム・オブ・オレンジはイングランドとスコットランド王位を得ようとしており、名誉革命でジェームズ2世を廃位、追放して、自身はイングランド王ウィリアム3世およびスコットランド王ウィリアム2世として即位した。ウィリアム3世は監督制を支持せず、長老派教会が再び復活した。
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