名誉革命、帰国と即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 09:31 UTC 版)
「メアリー2世 (イングランド女王)」の記事における「名誉革命、帰国と即位」の解説
1685年に伯父チャールズ2世が亡くなり、父ジェームズが後を継いでイングランド・スコットランド王に即位した。当時のイングランドの貴族や議会はほとんどプロテスタントであり、カトリックを重用するジェームズ2世と事あるごとに対立した。ジェームズ2世がそれまでなかった常備軍を新設するにおよんで国王と議会の対立は頂点に達し、議会はジェームズ2世追放とオランダに嫁いでいたメアリーの擁立に傾き、夫ウィレムもオランダ軍を率いてイングランドへ侵攻することに同意する。 メアリーはカトリック化政策を取る父を諫め、1686年に父と対立して資格停止処分となったコンプトンの処分撤回を求めたり、1687年に父からカトリックへの改宗を勧められた時は拒絶している。一方で夫からイングランド遠征の話を聞かされると了解したが、継母から異母弟ジェームズ・フランシス・エドワードの誕生を祝う手紙や、イングランド遠征に協力して父に逆らうのではと疑う手紙を送られた際、曖昧な返事を出している。 1688年、ウィレムの率いるオランダ軍の出航を見届けてオランダに待機、オランダ軍はなんら抵抗を受けずにイングランドへ上陸し、ジェームズ2世の常備軍司令官も無抵抗のまま降伏した。ジェームズ2世はロンドンからケントまで逃れたところを捕らえられたが、メアリーの立場を考慮して、処刑されることなくフランスに追放された(処刑すれば殉教者として同情が集まるという判断もあった)。 メアリーは翌1689年2月に渡英して帰国、最初はハンプトン・コート宮殿に住んだが、ウィレムの健康問題からケンジントン宮殿に移住した。以後、メアリーは死ぬまでイングランドに留まることになる。 当初イングランド議会はメアリーの即位だけを望んだが、ウィレム3世が難色を強く示し、またメアリーが共同統治を望む手紙をウィレムに送った。そこで議会も、ウィレムがオランダ総督を兼ねたままウィリアム3世として女王メアリー2世と共にイングランド、スコットランド、アイルランドの王位に即くことに同意した。こうしてウィリアムとメアリーの共同統治が始まった。イングランドでは流血を見ることなく革命が成立したのでこの政変を名誉革命と呼ぶようになった。
※この「名誉革命、帰国と即位」の解説は、「メアリー2世 (イングランド女王)」の解説の一部です。
「名誉革命、帰国と即位」を含む「メアリー2世 (イングランド女王)」の記事については、「メアリー2世 (イングランド女王)」の概要を参照ください。
- 名誉革命、帰国と即位のページへのリンク