政変
政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 05:33 UTC 版)
斯波氏当主の交替に反発した宗全は一色義直や土岐成頼と共に義廉を支持したが、8月25日に義政は斯波氏当主となった義敏に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与え、義敏・松王丸父子は出仕した。 9月、伊勢貞親は義政の弟義視が謀反を企んでいると義政に讒言し、その殺害を訴えた。ところが、9月5日夜に義視が細川勝元邸に入り、貞親が義政に讒言して自分を殺害しようとしていると勝元に訴えた。翌6日に勝元は出仕、義政に申し開きをして、罪を問われた貞親と季瓊真蘂、義敏と赤松政則は京都から逃げた。義敏は家督問題で貞親・真蘂と繋がり、政則は真蘂と同族であり、赤松氏再興に真蘂が関わっていたからとされる。
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政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 03:33 UTC 版)
249年(正始10年)1月6日、曹芳は明帝の陵墓に参拝するため高平陵に向かい、曹爽とその弟の曹羲も付き従った。大司農の桓範は、洛陽を空けることの危険性を説き、曹爽に従軍を取りやめるよう強く進言したが、曹爽は取りあわなかった。司馬懿は一行が出かけたのを確認すると、すぐさま宮中に参内して郭太后に対し、皇帝をないがしろにして私利私欲な政治を行ったことを理由として曹爽兄弟の地位を剥奪するよう上奏した。司馬懿は郭太后の許可を取り付けると、子の司馬師・弟の司馬孚に洛陽の宮城を制圧するよう命じた。また、郭太后の詔勅を用いて司徒の高柔・太僕の王観の協力を得て、洛陽の曹爽・曹羲の邸宅をそれぞれ制圧させた。高柔には仮節を与え、行大将軍事に任命して曹爽の兵を管轄させた。また王観にも、中領軍を代行させて曹羲の兵を管轄させた。 司馬懿は、曹爽の武器庫を抑えるため、曹爽の屋敷の門前を通りかかった。このとき、曹爽の帳下督である厳世が、楼に登り弓を引いて司馬懿を射殺しようとしたが、孫謙により制止された。厳世は幾度か弓を構えたが、そのたびに孫謙に妨害され、結局弓を射ることはできなかった。 またこのとき、桓範は皇宮を脱出し、曹爽のもとに向かった。蔣済が司馬懿にその事を報告して対処を求めると、司馬懿は「曹爽は内心では桓範を疎んじているし智恵も足りない。桓範が献策を示したとしても、目先の欲にかられてばかりで絶対取り上げはすまい」と言い、桓範を追撃せずに曹爽の元へ行かせた。 司馬懿は洛陽の制圧が完了した後、太尉の蔣済らを自ら統率し兵をまとめて、高平陵より戻ってくる曹芳を出迎えるため洛水の浮橋のほとりに駐屯した。曹爽は、都で変事が起こったことを知ると、皇帝の帰還を留め、屯田兵数千人余りを徴発して攻撃に備え、伊水の南に陣を張った。 司馬懿は上奏文をしたため、皇帝に渡すため曹爽らの駐屯地へ使者を送った。上奏文の内容は 「大将軍曹爽は、先帝の遺命に背き、国法を乱しております。要職には全て自分の息のかかった者を置き、建国以来国のために尽くしてきた者はみな退けられました。その専横ぶりは日ましに看過しがたいものとなっており、天下の人々もこの暴虐ぶりに恐れを抱いております。群臣はみな、曹爽には陛下をないがしろにする心があるため、彼に兵権に預けるべきではないと考えております。皇太后にその旨を上奏致しましたところ、皇太后はそのようにせよと勅せられました。私はすぐに命令を下して曹爽・曹羲らのもとに置かれた軍隊を没収し、曹爽らを解任して元の官位に戻しました。私は病をおして軍を率い、洛水の浮橋に拠り、急事に備え控えております。もし陛下のご帰還を阻む者があれば、軍法に照らして処断致します。どうか陛下、彼らに対する処遇をご決断ください。」 というものであった。だが曹爽は、この上奏文を皇帝に取り次がなかった。 曹爽の陣営にたどり着いた桓範は、許昌に向かい皇帝を擁して再起を図るよう献策を行ったが、曹爽は失敗を恐れて渋るばかりであった。桓範は曹爽の弟の曹羲にも決起を勧めたが、曹爽兄弟は結局どちらも決断することはできなかった。 曹爽は夜を待ってから、侍中の許允と尚書の陳泰を司馬懿のもとに伺わせ、状況を探らせた。司馬懿は、曹爽が行った過ちを列挙し詰責を行っていたが、曹爽の処分を免官までで留めており、命まで奪おうというものではなかった。陳泰は陣営に戻るとこれを曹爽に報告し、上奏文を皇帝に取り次ぐよう勧めた。司馬懿はまた、曹爽が信頼していた殿中校尉の尹大目を送り込んで曹爽を説得させた。尹大目が洛水の方角を指さして誓い立てたところ、曹爽はこれを信用しようという気になった。桓範らは過去の故事成句を引用して必死の思いでそれを諫めたが、曹爽はとうとうそれに従うことができなかった。曹爽は「司馬仲達殿はただ私の権勢を奪いたいと思っているだけだ。私は、解任されはしたものの侯のままでいられるのだから、裕福に生きることはできるだろう」と言った。桓範は、曹爽兄弟の見通しの甘さを嘆き、自らも罪に問われることを覚悟し、連座による一族滅亡を嘆いたという。曹爽はその後すぐに司馬懿の上奏文を皇帝に取り次いだ。こうして曹爽は戦わずして司馬懿に降伏した。
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政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 01:51 UTC 版)
1983年10月13日、ビショップ首相が急進的なレーニン主義者であるバーナード・コード(英語版)副首相を担いだハドソン・オースティン人民軍司令官によって監禁された。アメリカは翌15日にビショップ救出をバルバドス政府に依頼するなどしていたが、19日にはビショップ派の国民が蜂起し、軍と戦闘が起き、その最中逃亡したビショップら閣僚が軍によって銃殺される事態となった。コードとオースティンの革命軍事評議会政府(RMC)が成立し、グレナダ総督は投獄され、戒厳令が出されるなど事態は緊迫化した。 20日、アメリカ政府内の小グループ、特別状況チーム(SSG、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領が議長)はグレナダへの侵攻計画を策定し、レーガンも侵攻を決めた。アメリカが侵攻の理由として表明したのは、キューバ及びソ連がグレナダに介入していること、グレナダの民主主義を守ること、グレナダにいるアメリカ人学生の安全を守るためということであった。 21日、バルバドスで、グレナダを除くOECS諸国とバルバドスの緊急会合が行われ、ジャマイカとアメリカを招請してグレナダに侵攻する決議を採択した。この会議では「OECS条約8条に基づく適当な措置」を執り、グレナダ総督のもとで民主的な選挙開催を要求するというものであった。ただしOECS条約による軍事措置は「外部からの侵攻」を根拠とする必要があり、この点は国際社会からの非難を受けることになった。同日、グレナダでは戒厳令が解かれ、24日には商店や学校が再開している。 一方で22日から23日にかけて行われたカリブ共同体の緊急会合もグレナダ総督の元での民主的な総選挙と、RMC政権を非難することでは一致していたが、カリブ諸国による平和維持軍の派遣については意見が分かれた。軍の派遣を主張するOECS諸国に対して、トリニダード・トバゴ、ガイアナ、ベリーズ、バハマが強く反対したこともあり、会議は物別れとなった。
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