政変と死
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「高平陵の変」も参照 248年(正始9年)曹爽の取り巻きの一人である李勝が、荊州に赴任するに当たり司馬懿を見舞った時、司馬懿は重病を装い彼らを欺いた。 249年(正始10年)正月(1月)6日、曹爽・曹羲兄弟が皇帝の墓参りのお供をして出かけたのを見計らい、司馬懿は抱き込んだ郭皇后の命で兵馬を指揮して、洛陽の武器庫を占拠し城を閉門させクーデターを起こした。側近の桓範は、曹家所縁の許昌に拠って兵馬を募り、併せて食糧徴発権を持つ大司農の印章を提示して司馬懿との決戦を主張したが、先手を取られた曹爽は、「私は富豪でいられるのならば、司馬懿に降伏してもいい」と述べ、司馬懿から軍籍解任と引き換えに罪を許すと言われると、戦意を失い降伏した(高平陵の変)。しかし司馬懿は曹爽兄弟を解任したばかりでなく、軟禁して徹底的な監視下に置き、食料の買出しさえも自由にさせなかった。そこで司馬懿に殺意があるのか窺う意味も込めて、食料の差入を申し入れると、すぐ食料が届けられたため、曹爽たちは安心した。 しかし正月10日になり、宦官張当の「曹爽らが3月に謀反を計画していた」という自白を根拠に、魏の皇室の分家筋の曹爽一族を警戒した司馬懿父子によって何晏らと共に謀反を企てた疑いで投獄され、即日三族皆殺しの刑に処せられた。 皇族曹氏の勢力はこれ以降衰退し、司馬懿の一族が事実上の支配権をもつことになった。
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政変と死
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「高平陵の変」も参照 249年、曹叡の陵に詣でるため、帝のお伴として曹爽と曹羲達兄弟が揃って外出した隙を見計い、司馬懿がクーデターを起こした(高平陵の変)。このとき桓範は、曹真と同郷で曹爽達とも親しかったため、危険を冒して曹爽達の下に赴いた。『魏略』によると桓範は、曹爽達が帝を擁しており、桓範自らが食料を掌る大司農の地位にあるのだから、帝を連れて武器が豊富にある許昌へ拠り、兵士を集めれば司馬懿に対抗できると進言した。そして桓範は曹羲に対しても、司馬懿が中領軍を手中にして日が浅いことから、曹羲が決断すれば中領軍を味方に引き戻せると進言し、司馬懿とあくまで敵対すべきと説得した。しかし曹爽兄弟は決断できず、桓範の進言を容れることができなかったため、曹羲も曹爽やその他の弟達と共に桓範から罵倒された(『魏氏春秋』)。 結局、曹爽と曹羲を初めとする兄弟達は司馬懿に降参し謹慎した。『魏末伝』には、司馬懿の監視下で怯えて過ごす曹爽兄弟達の姿が描写されている。結局、曹爽は謀反の容疑をかけられ、曹羲も曹訓や何晏達と共にそれに連座し、三族皆殺しの刑に処せられた。 『論語集解』の編纂に何晏・荀顗・鄭沖・孫邕と共に携わるなど、文学的な才能に長けていた(『晋書』「鄭沖伝」)。また、発石車の改良について馬鈞と裴秀が対立したとき、初め曹羲は裴秀の意見に理解を示していた。しかし、馬鈞に師事していた傅玄が熱心に説得すると、今度は馬鈞の発明を認め、兄の曹爽へのとりなしを約束した。結局、曹爽が馬鈞の発明を無視したため、採り上げられることはなかった(魏志「方技伝」に引かれた傅玄の序)。
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