じ‐はく【自白】
自白
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自白(じはく)とは、法手続上、自らに不利益な事実を認めることをいうが、民事手続と刑事手続でその概念は異なる。マスコミ報道などで「罪を自白した」というときの「自白」は刑事上のそれを指している。過去には、自白が強要される例も存在した(氷見事件など)。
- ^ a b 熊谷弘・浦辺衛・佐々木史朗・松尾浩也編 『証拠法大系II自白』1970年、p.6
- ^ a b c 熊谷弘・浦辺衛・佐々木史朗・松尾浩也編 『証拠法大系II自白』1970年、p.3
- ^ 熊谷弘・浦辺衛・佐々木史朗・松尾浩也編 『証拠法大系II自白』1970年、p.4
- ^ (株)旬報社 発行 今村核 著「冤罪弁護士」
- ^ a b c 光藤景皎 『刑事訴訟法 I』2007年、p.102
- ^ 光藤景皎 『刑事訴訟法 I』2007年、pp.102-103
- ^ a b c d e f 光藤景皎 『刑事訴訟法 I』2007年、p.103
- ^ a b c d e 光藤景皎 『刑事訴訟法 I』2007年、p.104
- ^ a b c 上口裕 『刑事訴訟法 I 第4版』2015年、p.186
- ^ 上口裕 『刑事訴訟法 I 第4版』2015年、p.187
- ^ “【なりすましウイルス】犯行予告わずか2秒で書き込み 神奈川県警、疑問を放置 - MSN産経ニュース” (2012年11月14日). 2018年12月4日閲覧。
- ^ 日本放送協会. “仕組まれた罠(わな) ~PC遠隔操作の闇~ - NHK クローズアップ現代+”. NHK クローズアップ現代+ 2018年12月4日閲覧。
- ^ “【時視各角】賢い韓日外交”. 中央日報 (2021年6月24日). 2021年6月24日閲覧。
自白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 15:10 UTC 版)
8月4日の午後、ノーマ・ベルの両親は警察に連絡した。ブライアン・ハウの死について、娘は何か知っているようであり、それを告白したがっている、というものであった。ジェイムス・ドブスンはノーマ・ベルの自宅を訪問し、ノーマに対して正式な形での訓戒を告げたのち、何を知っているのか教えて欲しい、と尋ねた。ノーマによれば、自分はメアリーに連れられて「Tin Lizzie」へ向かい、そこでブライアンの遺体を見せられ、そのあとに、どのようにしてブライアンを絞め殺したか、をメアリーは実演してみせたという。ノーマの証言では、メアリーは楽しそうにブライアンの首を絞め、その後、剃刀 -現場に隠してあった- と壊れたハサミを使ってブライアンの腹に傷痕を付けたのだという。その後、ノーマは警察を犯行現場に案内し、剃刀の隠し場所を明かした。ノーマがブライアンの腹部に刻んだ創傷の描画は、検視官による説明と正確に一致していた。 そのあとにメイはこう言ったの。「ブロックよ。ノーマ、行きましょ」。メイと私は例のコンクリート・ブロックのあるところまで来たわ。そのあとメイはブライアンに対してこう言ったの。「首を出しなさい」。このとき、男の子が何人かいて、ブライアンの飼い犬・ラッスィーと遊んでたんだけど、ラッスィーは何か吠えていたわ。メイは私たちのあとを追ってきて、こう叫んだのよ。「あっちへ行ってなさい!さもないと犬をけしかけるわよ!」。男の子たちは去っていった。そのあとに、メイはブライアンに対して改めてこう言ったのよ。「首を出しなさい」 警察に対するノーマ・ベルの供述の一部(1968年8月4日) 8月5日の未明、警察はメアリー・ベルの自宅を訪問した。このとき、以前の供述との矛盾を突き付けられた彼女は、明らかに身構えた態度で警察に対して以下のように明言した。 「これは洗脳よ。弁護士を呼んで。ここから出してもらうの」 その日のうちに、ノーマは再び尋問を受けた。このとき、ノーマはメアリーがブライアンを絞殺した際、その現場に立ち会ったことを認める趣旨を供述した。それによれば、メアリー、ノーマ、ブライアンの3人で「Tin Lizzie」にいたとき、メアリーは「気が触れたかのように」ブライアンを草叢に押しやって首を絞め、その後にこう言ったという。「手が疲れてきたわ。代わって」。その後、ノーマはメアリーとブライアンを残して現場から走り去った。 メアリーとノーマの着ていた衣服の法医学的鑑定が実施され、その鑑定結果によれば、ブライアンの遺体の表面から発見された灰色の繊維は、メアリーが所有していた毛織のドレスとぴったり一致した。ブライアンの履いていた靴に付着していた涅色の繊維は、ノーマが所有していたスカートとぴったり一致した。
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自白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 04:02 UTC 版)
検察官が読み上げた公訴事実を全て認め、自分は有罪だと主張する被告人。しかし、彼の無実を信じる友人らのカンパによって雇われた弁護人・森江は、“真実を追求する立場から”彼の無罪を主張すると言う。被告人と弁護人が真っ向から対立するという異様な状況はどのように展開するのか。 桐石響樹(きりいし ひびき) 被告人。体格は立派だが、気弱そうな物腰。藁山を殺した、自分は有罪だと主張する。 藁山花俊(わらやま はなとし) 被害者。文芸ブローカーのような仕事をしていた。 朝浜高弥(あさはま たかや) 検察側証人。30代のひょろりとした男。自称・藁山の門下生。 千家江礼禰(せんけ エレーネ) 検察側証人。デザイナー兼画家。 来栖綴(くるす つづる) 検察側証人。高校2年生。女子高生。藁山の遺体の第一発見者。 豊幌元雄(とよほろ もとお) 検察側証人。元出版社社員。通報者。
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自白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:44 UTC 版)
付着物が発見された直後から遠藤は被疑者として扱われ、23日には岩沼署で、翌24日には出頭を命じられた新潟県警津川署で取り調べを受けた。当初、遠藤は調べに対して人を轢いたことを否定していたが、「お前の車のタイヤに人の血が付いている」として、弁明は聞き入れられなかった(しかし、これは遠藤から自白を引き出すための偽計であった疑いがある。下記参照)。取られた調書の内容に訂正を要求するも拒否され、やがて遠藤は、自身も気づかないうちに被害者を轢いたのかも知れない、と思うようになった。ほどなく、遠藤は調書の中でひき逃げを認めた。 私がセンターライン寄りの消雪パイプすれすれに時速約四〇キロメートルで走行中、急に車の進行状態が後から何かに車を引張られるように、スムーズであった車の進行が鈍ったような感じがしたのです。この状態に私が気付いたと同時に急にハンドルが右か左か分かりませんが取られ、また車の後の方がバウンドした状態となり、私の体が少し浮き上がったのです。〔中略〕二〇日夜、津川町であった死亡交通事故は、私が起こしたことに間違いありません。 — 津川署による遠藤の員面調書(12月24日付)より 上のように、調書において遠藤は、現場での異常走行体験とひき逃げの容疑を認める供述をしている。しかし、異常走行体験について遠藤は、消雪パイプを踏めば衝撃がある、とあくまで一般論として述べた部分を書き換えられたのだと後に主張している。また、遠藤が署名する前に警官に読み聞かせられた調書は、実際の文面とは全く異なったものであったとも述べている。一方で警察側によれば、24日の現場検証で遠藤は、痕跡が残っていない事件現場をほぼ正確に指示するという、秘密の暴露に類する供述をしたという。これに対して遠藤は、事件現場には警官に誘導されたのだと反論している。 年が明けて1976年の初め、遠藤は地元の公安委員会より90日間の免許停止処分を受けた。講習を受けることによって遠藤の免停期間は45日間に短縮されたが、不服申立制度があることは知らなかった。事件から3か月後、遠藤は新潟地検へ書類送検された。しかし、これ以降遠藤に対する追及は途絶え、遠藤は逮捕されることもなく事件から1年を過ごしている。
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自白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/20 04:04 UTC 版)
12月4日、捏造は暴露された。トマス・オンズロー(第2代オンズロー男爵)は、独自に調査を始め、前月にメアリーの夫ジョシュアが若いウサギを買っていたことが分かった。訴え出るだけの証拠は十分であると確信して、サー・ハンス・スローン宛ての手紙で彼は、事件は「イングランドを不安に陥れたといってもよい」が、自分はまもなく調査結果を公表すると書いた。同じ日に、旅館Lacey's Bagnioの荷物係であるトマス・ハワードは、治安判事サー・トマス・クラージズに、自分はメアリーの義理の姉妹マーガレットに買収され、ウサギをこっそりメアリーの部屋に持ち込んだと白状した。逮捕され尋問されたメアリーは罪状を否認し、マーガレットはダグラスの尋問に、自分は食用のためにウサギを入手しただけだと主張した。 わたしは姉妹にウサギを一羽取り寄せたと言い、わたしは彼女にウサギは荷物係に渡して持っていってもらってほしいと言い、彼女は1000ポンドもらっても誰にも言わないからと言いながら私の言うとおりにした。 —メアリー・トフト マニンガムはトフトを診察し、何かが彼女の子宮腔に残っていると考え、それで彼はクラージズを説得して、彼女に宿に留まらせることを認めさせた。ダグラスは、そのときまでにトフトのところに来ていたが、彼女に3回か4回、数時間ずつ質問した。この数日後、マニンガムは彼女に痛い手術をするぞと脅し、そして12月7日にマニンガム、ダグラス、ジョン・モンタギュー(John Montagu)およびフレデリック・カルヴァート(Frederick Calvert)の前で、トフトはとうとう告白した。流産したあと子宮頸部が開いている間に、共犯者が、彼女の子宮のなかにネコのかぎつめと体躯(body)、ウサギの頭を挿入したのである。彼らはまた話を捏造し、トフトが妊娠中に、野良で働いている間に、ウサギを見て驚き、それ以来ウサギに取り憑かれるようになったと主張した。後日分娩しようと、動物の一部が彼女の膣のなかに挿入されたのだった。 マニンガムとダグラス(彼女の自白を引き出したのは後者であった)にふたたび追及された彼女は、12月8日と12月9日にさらに容疑を認める供述をし、その後「卑劣な詐欺師」としてエドワード3世治下制定の法令で訴えられトットヒル・フィールズ・ブライドウェル刑務所に送られた。それ以前に行われた未公表の自白で、彼女は、事件はすべて、義理の母親からジョン・ハワードまでのさまざまな関与者のせいにした。彼女はまた、旅行中のある女性が自分に、身体のなかにウサギらを挿入する方法と、そのたくらみにより「生きている限りけっして暮らしに困らない」ことは確実だと教えてくれたと主張した。『British Journal』は、彼女が1727年1月7日に、ウェストミンスターの四季裁判所に出廷し、「怪物のような物を産んだふりを装った忌まわしい詐欺師として」訴えられたと報じた。マーガレット・トフトは、堅く口を閉ざしたまま、さらなる供述を拒んだ。1726年12月24日の『Mist's Weekly Journal』は、「この看護師は、自分が関係した人物について尋問されたが、詐欺について知らされていなかったか、あるいは自分が知っていることを証言しようとしなかったかのどちらかである。つまり彼女の口からは何も得られなかったのである。その意志の固さは皆を驚かせた。」と報じた。
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自白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 10:16 UTC 版)
「ロンドン・バーカーズ」の記事における「自白」の解説
ビショップとウイリアムスは12月4日刑務所へ行き、その後同室となり通常の取り調べが行われた。 ジョン・ビショップによるとリンカーンシャーの少年は11月3日スミスフィールドの溜り場「ベル(The Bell)」からノバスコシアガーデンに泊めてやるといわれて連れ出された。到着すると、彼はラム酒とアヘンチンキで潰された。ビショップとウイリアムスはショーデッチ教会近くの「フェザーズ(the Feathers)」へ呑みに行き、少年が気を失ったころに戻り、足に紐をかけ頭から井戸に投げ込んだ。しばらくもがいた後少年は死んだ。彼らはまた呑みに出かけ、戻ると少年の衣服を脱がせて袋につめた。 彼らはまた、10月9日にショーディッチで寝ていた浮浪者フランシス・ピグバーンと彼女の子供を殺したと自白した。彼らは被害者を空き家の2号に呼び込んだ。手口は同じだったが、この時には彼らはオールドストリートの「ロンドン・アプレンティス(the London Apprentice)」で時間を潰した。彼らは死体を聖トーマスの外科医サウスのところへ運んで行ったが受け入れの手続きが遅かったため、今度はグレンジャーのところへ持ち込んで8ギニーで売った。 カニングハムと言う名の少年は、10月21日にスミスフィールドの豚市場で寝ていて同様の手口で被害にあった。彼はぬるいビールと砂糖、ラム酒とアヘンチンキを盛られ井戸で殺された。その後衣服を剥がれ袋詰めにされ聖バーソロミュー病院のスミスに8ギニーで売られた。 自白は、配達と殺人に関わった他の仲間にも及んだ。
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自白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 17:05 UTC 版)
オウム脱会後は、一部の週刊誌から計1000万円を超える謝礼を受け取り、インタビューに応じていた。 1990年4月、故郷の山口県で小中学生を対象にした学習塾『學塾』を開いた。 1991年11月14日、坂本堤の知人の滝本太郎が学習塾まで訪ねてくる。ここでも事件への関与を否定した。 1991年11月20日、妻と協議離婚。 1993年1月12日、養母と離縁し『岡﨑』姓に戻す。 1994年6月27日、松本サリン事件が起きる。場所が長野県だったことや「失敗の多い村井がオウムにいる限り何も成立するはずがない」との考えから、教団の犯行とはまったく思い至らなかった。しかし1995年3月20日に地下鉄サリン事件、3月30日に警察庁長官狙撃事件が起き「こういうことをするのは麻原しかいない」と直感。教団に強制捜査が入ると、自ら磯子署捜査本部に電話をかけ「阿鼻叫喚の地獄絵図を見て決心しました。坂本事件について話します」と、教団幹部らが坂本弁護士一家殺害事件に関与したことを初めて供述した。 1995年4月はじめ、神奈川県警の刑事と接触。1995年4月6日深夜~4月7日未明、神奈川県警の任意聴取に、坂本弁護士一家殺害事件への関与を認め、T殺害についても自供。 1995年4月29日~5月9日、交際していた中国人女性と結婚するため中国へ渡航。取り調べ中であったが、警察は岡﨑が必ず帰ってくると信じ送り出したという。1995年5月5日、中国人女性と再婚。 その後は警察の下、小田原市の保養所やホテルで隔離生活を送る。 1995年5月20日、殺人並びに死体遺棄事件について自首。神奈川県警が自首調書を作成した。岡﨑の自首によって坂本弁護士一家殺害事件がオウムの犯行と断定された。 1995年9月6日、警視庁と神奈川県警が新潟県内で坂本堤の遺体を発見。坂本弁護士一家殺害事件でまず坂本堤殺害容疑で緊急逮捕。 1995年9月7日に富山県内で坂本都子の遺体が、同年9月10日に長野県内で坂本龍彦の遺体が発見される。龍彦の遺体が埋められていた場所は、1990年に行った捜索現場から僅か10mしか離れていなかった。 1995年10月10日、オウム真理教男性信者殺害事件で起訴される。 1995年10月13日、坂本弁護士一家殺害事件で起訴される。
※この「自白」の解説は、「岡崎一明」の解説の一部です。
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自白
「自白」の例文・使い方・用例・文例
- 容疑者は犯行を自白した
- 被疑者は全面的な自白をした
- 容疑者から自白を引き出す
- 警察は容疑者の自白の真偽を調べている
- 私は今までに犯した罪を自白します。
- 容疑者は自白するまできびしい尋問を受けた。
- 新聞によると男はついに自白したそうだ。
- 指輪を盗んだというトムの自白で女中の容疑は晴れた。
- その金を盗んだという彼の自白に家族はおどろいた。
- 彼は妻を殺害したことを自白した.
- 彼は自白しようとしなかった.
- 強制自白.
- 彼は無理やりに自白させられた.
- 無理やりに自白させる.
- 無理やり人に自白させる.
- 罪を犯したことを自白する.
- 彼の自白は真相とははるかに隔たっていた.
- 警察はどのようにして彼に自白させたのか.
- 彼は最後までその子を殺したことを自白しなかった.
- それ以上は包み切れず, 彼はすべてを自白した.
自白と同じ種類の言葉
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