メアリー・トフトとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > メアリー・トフトの意味・解説 

メアリー・トフト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/20 04:04 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
メアリー・トフト(Mary Toft)
メアリー・トフトを描いた版画、ジョン・ラゲールによる1726年の油彩画に基づいている
生誕 メアリー・デニヤ
1701年頃
死没 1763年(62歳)
国籍 イングランド王国/グレートブリテン王国
著名な実績 医療的捏造

メアリー・トフトトフツとも、Mary Toft(Tofts)、旧姓デニヤ(Denyer)、1701年頃 - 1763年)は、イングランドサリー州ゴダルミング英語版出身の女性で、1726年に医師らを欺きウサギを出産したと信じさせたことで物議を醸した人物である。

人物

1726年に妊娠したが、その説明によれば「ウサギを見て気が変になり」流産した。このとき、メアリーがさまざまな動物の断片を産んだと主張したことから、地元の外科医ジョン・ハワードが訪問するに至り、この件について調査した。動物の肉片の分娩に立ち会ったハワードは、著名な内科医らに正式に通知し、この症例がジョージ1世の王室外科医ナサニエル・セント・アンドレ英語版の注意を引くことになった。 セント・アンドレは、メールの症例は真実だと結論づけたが、王がさらに派遣した外科医シリアカス・アーラーズは懐疑的だった。既に非常に有名になっていたメアリーは、ロンドンに連れてこられ詳細に調査された。メアリーはロンドンで綿密な検証を受けたが、ウサギを産まず、ついに虚言を自白し、その後、詐欺師として収監された。

この結果に公衆は嘲笑し、それにより医師らは大混乱となり、何人もの著名な外科医の経歴に大きく傷ついた。この事件は風刺画家で社会批評家ウィリアム・ホガースなど多くの風刺のネタにされ、医師らのうかつさを強く批判した。メアリーは最終的に罪に問われることなく釈放され帰郷した。

記事

1726年10月後半この話が最初に公衆の注意を引き、ロンドンに報告が入った[1]或る記事が1726年11月19日に掲載された。

ギルフォードから不思議な、しかし十分に証拠を有するニュースが続々と届いている。約1ヶ月前、ギルフォード近くのゴダルミンに住む哀れな女性が著名な外科医で男性助産師ジョン・ハワード氏の介添で出産したが、取り上げたのはウサギに酷似した生物だった。ただし心臓と肺は腹外で発育していた。約14日後、同女性はハワード氏の手で完全体のウサギを1羽産んだ。そして2、3日後にはさらに4羽、金曜日、土曜日、日曜日、つまり今月の4日、5日、6日には、毎日1羽ずつ産んだ。合計、9羽だが、みな取り上げる途中で死んでしまった。

女性は誓ってこう言った。2ヶ月前、他の女らと野良で働いていたときに、女らがウサギを追い立て、ウサギは走って逃げたので追いかけたがつかまらなかった。このことで女性の中にウサギへの慕情が生じ、女性(妊娠中)は体調を崩して流産し、ウサギのことを考えずにはいられなくなった。

この一件に関する人々の意見はやはり大きく異なっており、産まれたウサギは王立協会への献呈がふさわしい珍品宝物などと考える者もいれば、この話に腹を立て、もしこれが事実なら人間の不完全さを示すものであり、蓋をおおってしまうべきと言う者もいる。
Weekly Journal』1726年11月19日[2]

「哀れな女性」メアリー・トフトは24歳または25歳であった。ジョン・デニヤーとジェーン・デニヤーの娘で、1703年2月21日にメアリー・デニヤとして洗礼を受けた。1720年に、年季奉公を経た衣服商ジョシュア・トフトと結婚し、夫婦はメアリー、アン、ジェームスの3子をもうけた。[3][4]メアリーは18世紀のイングランドの農婦という余儀ない境遇により、1726年に再度妊娠したときも野良で働き続けた。[5]妊娠初期に苦痛を伴う合併症を訴え、8月前半に複数の肉塊を排出したが、うち1つは「自分の腕くらいの大きさ」であった。これは胎盤の発育異常の結果である可能性があり、これにより胎芽の発育を止め、血塊と肉塊を排出させたものと思われる。[6][7][8]9月27日に陣痛が始まった。隣人が呼ばれ、いくつかの動物の肉片を産み出すのを見守った。隣人はついで肉片を、トフトの実母と、義母のアン・トフトに見せたが、義母は偶然にも助産婦であった。アン・トフトはこの肉片を、ギルフォードを地盤とする経験30年間の男性助産師ジョン・ハワードに送った。[6][9]

ハワードは、最初、トフトが動物の部分を産んだという考えを否定したが、しかし翌日、疑いを持ったまま、彼は彼女のもとに行った。アン・トフトは彼にさらに、前夜の奮闘の断片を見せたが、彼がメアリーを調べてもなにも見つからなかった。メアリーにふたたび陣痛が始まり、さらにいくつかの動物の部分を産んだらしく見えたため、ハワードは戻って調査を続けた。11月9日の同時代の記述によれば、その数日間で彼は次のものを取上げた、「ぶち色のネコの脚3本、ウサギの脚1本:内臓はネコのもので、それらの中に、ウナギの背骨の断片3つ。...ネコの足と思われる物は、彼女の想像によれば、彼女が好きだった、夜いっしょにベッドで寝たネコから形成された。」トフトは、ふたたび具合が悪くなり、その後の数日間でウサギの肉片をさらにうんだ。[6][8]

11月4日事件がさらに広く知られるようになったので、ヘンリー・ダヴナント、ジョージ2世の宮廷の一員がどのような様子であるのか見に行った。彼は、ハワードが集めたサンプルを調べ、表向きは信じている者として、ロンドンに戻った。ハワードは、トフトをギルフォードに移らせ、そこで彼は、彼女の話を疑うあらゆる人の前でウサギを取り上げようと申し出た。[10][11]症例の進展を知らせる、彼がダヴナント宛てに書いた手紙は、1723年以来王室のスイスの外科医ナサニエル・セント・アンドレ(Nathaniel St. André)の注意を引いた。[12]セント・アンドレは、自分のパンフレット『A short narrative of an extraordinary delivery of rabbets』(1727年)でこれらの手紙のうち一通の内容を結局、詳述することになる。

拝啓 わたしがあなた宛に手紙を書いて以来、わたしは哀れな女性からさらに3羽取上げ、3羽すべてが半ば育ち、うち1羽は死んだウサギでした。最後のものは「子宮」(Uterus)内で23時間、跳ねてそれから死亡しました。11羽目のウサギが取り去られるやいなや、12羽目のウサギが跳ね、それはいま跳ねています。もしよろこんで現場に来る好奇心のある人物がいれば、彼女の「子宮」(Uterus)のなかの跳びを見て、もしよければ彼女からそれを取上げて下さい。それは、好奇心の強い人々の大きな満足になるでしょう:もし彼女が身ごもっているならば、彼女はあとわずか10日間で産むでしょう、ですからわたしはあと何羽のウサギがいるかわかりません。わたしは、もっと便利なようにその女性を「ギルフォード」に連れてきました。 敬具 ジョン・ハワード[13]

調査

ナサニエル・セント・アンドレの彩色彫版画
国王ジョージ1世は症例に魅惑された。

王室は、11月半ばまでに事件に非常に興味を持ち、セント・アンドレと王太子秘書サミュエル・モリノーを調査に派遣した。11月15日に彼らは到着すると、ハワードによってトフトのもとに連れて行かれ、彼女はウサギの胴体を分娩した[1]。セント・アンドレの報告では、自身によるウサギの調査内容を詳述している。彼はそれが呼吸したか調べるために、肺の片を水に入れ浮くかどうか見たところ、それは浮いた。セント・アンドレはトフトを診察し、ウサギらは彼女の輸卵管で育てられたと結論を下した。トフトは、同じ日ののちほどの、医師らの居ないときに、もうひとつウサギのトルソを産んだと伝え、それをも2人は検査した[11][14]。彼らがその晩戻ると、トフトはふたたび激しい子宮収縮を示していた。さらに診察が続き、セント・アンドレは、いくつかのウサギの皮膚を取上げ、数分後にはウサギの頭が続いた。男性二人ともが、排出された肉片を検査し、いくつかはネコの身体部分に似ていることを認めた[15]

王は強く興味をそそられて、次に外科医シリアカス・アーラーズをギルフォードに送った。11月20日、アーラーズが到着すると、メアリーは妊娠の兆候はなにも示していなかった。彼は事件は捏造ではないかとすでに疑っていた可能性があり、メアリーがあたかも何かが「産み落とされる」のを防ぐかのように、両膝と両腿をくっつけている様子であることを見て取った。男性助産師であるハワードがアーラーズにウサギを産むのを手伝わせようとしなかったので、彼は、ハワードの行動も怪しいと考えた。ただしアーラーズは男性助産師ではなかったし、どうやらより前の出産ではメアリーにかなり痛いおもいをさせていたようだった[16]。彼は事件は捏造であると確信し、嘘をつき、関係者に自分はメアリーの話を信じると言い、それから口実を作ってロンドンに戻り、ウサギの標本を持って行った。彼がより綿密に調べると、それらが人工の道具によって切られている証拠が見つかり、また糞の中に藁と穀物の断片があるのに気づいた[1][17]

12月21日、アーラーズは自分の調査結果を報告した。[18]翌日、ハワードはアーラーズ宛てに手紙を書いて、標本の返還を求めた。[17]アーラーズの疑いは、ハワードとセント・アンドレの2人ともを、そしてどうやら王をも悩ませ始め、2日後にセント・アンドレと同僚は、ギルフォードに戻ってくるように命令された。[16][19]彼らは到着するや、ハワードに会い、すると彼はセント・アンドレに、メアリーはさらに2羽のウサギを産んだと語った。彼女は胎盤と推定されるいくつかの部分を産んだが、しかし彼女はそのときまでに体調が悪くなり、腹部の右側の絶えない痛みに苦しんでいた。[16][20]アーラーズに対し先手を打つため、セント・アンドレは複数の証人から宣誓供述書を集めたが、これはアーラーズの正しさに疑いを投げかけ、そして11月26日にメアリーの話を支持するために王の前で解剖実証を行なった。[19][21]セント・アンドレの小論文によれば、セント・アンドレもモリノーも、詐欺的な活動をまったく疑っていなかった[22]

セント・アンドレは、王から命令されてギルフォードに戻り、さらなる調査を遂行できるようメアリーをロンドンに連れてきた。彼には、リチャード・マニンガムが随行していたが、彼は1721年にナイト爵を授けられた有名な産科医で、チチェスター司祭であるトマス・マニンガムの二男である。[16]彼はトフトを調べると、彼女の腹部の右側はかすかに大きくなっていた。マニンガムもまた彼がブタの膀胱と思ったものを取り上げ - ただしセント・アンドレとハワードは彼の同定と意見を異にした - しかしそれが尿の臭いがするので疑わしくなったものの、関係者らは、人前では何も言わないことで合意し、12月29日のロンドンに戻るとメアリーをレスター・スクウェアの宿 Lacey's Bagnio に泊まらせた[19][23][24]

検証

ホガース著『Cunicularii, or The Wise Men of Godliman in Consultation』(1726年)[25]セント・アンドレは、メアリーを「健康で丈夫な体を持ち、小柄。白い肌で、たいへん愚かな、不機嫌な気性を持つ。彼女は読みも書きもできない」、彼女の夫(E)を「ゴドリマン(ゴダルミング)の貧しい年季済みの衣服商人で、彼女との間に3子をもうけた」と記した。[26]

草創期の新聞に報道され、話は国民的な騒ぎとなったが、ただしいくつかの刊行物は懐疑的で、『ノリッチ・ガゼット』は、事件を単に女性たち特有の噂話と見なした[27]。ウサギのシチューとかめで煮た野ウサギはディナー・テーブルから消え、うさんくさい話だったにもかかわらず、多くの内科医は自らメアリーに会いたい衝動に駆られた。政治評論家のジョン・ハーヴィーはのちに友人ヘンリー・フォックスに語った:

町のだれもが、男も女も、彼女に会い、彼女を調べに行きました。彼女の腹の、絶え間ない動き、音、ごろごろがらがらいう音は、なにか奇怪です。ロンドンの著名な内科医、外科医、男性助産師はみな、そこに集まり、昼も夜も、彼女の次の出産を見守っています。
ジョン・ハーヴィー(第2代ハーヴィー男爵)(John Hervey, 2nd Baron Hervey)、[3][28]

メアリーは、セント・アンドレの厳重な管理の元、著名な内科医によって調査されたが、それにはジョン・モーブレーも含まれた。『The Female Physician』において、モーブレーは、女性は、彼がスターキンと名づけた生き物を産むことができると提唱していた。スターキンとは、オランダ女性の分娩後に出てくると信じられていた後産である(研究社『リーダーズ英和辞典第3版』による)。彼は胎内感応を信じており、これは受胎と妊娠は、母親が夢見た、あるいは見たものに影響されることがあるという広く信じられた考えで、[29]彼は妊婦に、家庭のペットとあまりに親密にしすぎると子供がそのペットに似ることがあると警告した。彼は、彼女の症例は自分の説を証明するように思って満足し、喜んでメアリーのに付き添ったという。[30]しかし男性助産師ジェームス・ダグラス(James Douglas)は、マニンガムと同様に、事件は捏造であると考え、セント・アンドレから繰り返し誘われたにもかかわらず、距離を置いた。ダグラスは、イギリスで最も尊敬される解剖学者のひとりで有名な男性助産師であったが、いっぽうセント・アンドレは、王の母語であるドイツ語を話す能力のみだけで宮廷の一員となったとしばしば見なされていた。[31]したがってセント・アンドレは、2人にメアリーの世話をしてもらいたいと必死に思った。ジョージ1世の即位のあと、ホイッグ党が第一党派になっており、マニンガムとダグラスが有するホイッグ党の党籍および医学知識によって、セント・アンドレの医師としてまた学者としての地位が向上する可能性があったのである。[24]ダグラスは、ヒトの女性がウサギを産むのは、ウサギがヒトの子を産むのと同じくらいありえないと考えたが、そうした懐疑を持ちながらも、彼は彼女に会いに行った。マニンガムが彼にブタの膀胱と疑われるとの情報を伝え、彼がメアリーを診察したあと、彼はこの件にセント・アンドレを関わらせることを拒んだ:[32]

あらゆる種類の人物が満足し確信するだけの判断を可能にするためには、解剖学あるいは医学の他の分野が提示するものとは別の論点が必要であった。これらの人々の最大多数は裁判官ではなかった。したがって、必要なほどの詐欺の証拠がえられるまで、人々がしばらくの間、これ以上の判断を留保することをわたしが望むのは疑いもなくまったく当然であった。
ジェームス・ダグラス[33]

メアリーは監視の元、数回、陣痛に入ったが、出産には至らなかった[34]

自白

12月4日、捏造は暴露された。トマス・オンズロー(第2代オンズロー男爵)は、独自に調査を始め、前月にメアリーの夫ジョシュアが若いウサギを買っていたことが分かった。訴え出るだけの証拠は十分であると確信して、サー・ハンス・スローン宛ての手紙で彼は、事件は「イングランドを不安に陥れたといってもよい」が、自分はまもなく調査結果を公表すると書いた。[3][35]同じ日に、旅館Lacey's Bagnioの荷物係であるトマス・ハワードは、治安判事サー・トマス・クラージズに、自分はメアリーの義理の姉妹マーガレットに買収され、ウサギをこっそりメアリーの部屋に持ち込んだと白状した。逮捕され尋問されたメアリーは罪状を否認し、マーガレットはダグラスの尋問に、自分は食用のためにウサギを入手しただけだと主張した[36]

わたしは姉妹にウサギを一羽取り寄せたと言い、わたしは彼女にウサギは荷物係に渡して持っていってもらってほしいと言い、彼女は1000ポンドもらっても誰にも言わないからと言いながら私の言うとおりにした。
メアリー・トフト[7]

マニンガムはトフトを診察し、何かが彼女の子宮腔に残っていると考え、それで彼はクラージズを説得して、彼女に宿に留まらせることを認めさせた。[36]ダグラスは、そのときまでにトフトのところに来ていたが、彼女に3回か4回、数時間ずつ質問した。この数日後、マニンガムは彼女に痛い手術をするぞと脅し、そして12月7日にマニンガム、ダグラス、ジョン・モンタギュー(John Montagu)およびフレデリック・カルヴァート(Frederick Calvert)の前で、トフトはとうとう告白した。[3]流産したあと子宮頸部が開いている間に、共犯者が、彼女の子宮のなかにネコのかぎつめと体躯(body)、ウサギの頭を挿入したのである。彼らはまた話を捏造し、トフトが妊娠中に、野良で働いている間に、ウサギを見て驚き、それ以来ウサギに取り憑かれるようになったと主張した。後日分娩しようと、動物の一部が彼女の膣のなかに挿入されたのだった。[37][38]

マニンガムとダグラス(彼女の自白を引き出したのは後者であった)にふたたび追及された彼女は、12月8日と12月9日にさらに容疑を認める供述をし、その後「卑劣な詐欺師」としてエドワード3世治下制定の法令で訴えられトットヒル・フィールズ・ブライドウェル刑務所に送られた。それ以前に行われた未公表の自白で、彼女は、事件はすべて、義理の母親からジョン・ハワードまでのさまざまな関与者のせいにした。彼女はまた、旅行中のある女性が自分に、身体のなかにウサギらを挿入する方法と、そのたくらみにより「生きている限りけっして暮らしに困らない」ことは確実だと教えてくれたと主張した。[7]British Journal』は、彼女が1727年1月7日に、ウェストミンスターの四季裁判所に出廷し、「怪物のような物を産んだふりを装った忌まわしい詐欺師として」訴えられたと報じた。[39]マーガレット・トフトは、堅く口を閉ざしたまま、さらなる供述を拒んだ。1726年12月24日の『Mist's Weekly Journal』は、「この看護師は、自分が関係した人物について尋問されたが、詐欺について知らされていなかったか、あるいは自分が知っていることを証言しようとしなかったかのどちらかである。つまり彼女の口からは何も得られなかったのである。その意志の固さは皆を驚かせた。」と報じた。[40]

余波

ホガースの『Credulity, Superstition, and Fanaticism』1762年刊、は、世俗的な、また宗教的なだまされやすさを嘲笑した。
同時代の人気のあるブロードシート(broadsheet)は、セント・アンドレを宮廷道化師の衣装で示して風刺した。

狂言発覚後、医師らの失態が多くの公衆の嘲笑の的となった。ウィリアム・ホガースは、『Cunicularii, or The Wise Men of Godliman in Consultation』(1726年)を刊行し、話の主な登場人物に取り囲まれるなか、陣痛を起こすトフトを描いた。人物"F"はトフトであり、"E"は彼女の夫である。"A"はセント・アンドレであり、"D"はハワードである。[25][41][42]デニス・トッド(Dennis Todd)の『Three Characters in Hogarth's Cunicularii and Some Implications』では、人物"G"はメアリー・トフトの義理の姉妹マーガレット・トフトであると結論づけている。トフトの12月7日の告白には、彼女の義理の姉妹は狂言に何の役割も果たしていないという主張が示されているが、マニンガムの1726年の『An Exact Diary of what was observ'd during a Close Attendance upon Mary Toft, the pretended Rabbet-Breeder of Godalming in Surrey』は、彼女も関与したとする目撃証言が記されている。[43]ホガースの出版物以外にも事件を嘲笑した絵画はあり、ジョージ・ヴァーチュー(George Vertue)は『The Surrey-Wonder』を刊行しており、1727年に刊行されセント・アンドレを風刺したブランケット新聞『The Doctors in Labour, or a New Wim-Wam in Guildford (12 plates)』もまた、当時話題を集めた。[44]

トフトの自白のタイミングは、12月3日に40ページの小冊子『A Short Narrative of an Extraordinary Delivery of Rabbets』を刊行したセント・アンドレにとって間の悪いものになってしまった。外科医はこの文書に自分の評判を賭けていたし、生殖一般に関する初期のより空想的な刊行物と比べれば、トフトの症例をより経験的に説明しているが、結局は嘲笑の対象となった。懐疑が正しかったことが証明されたアーラーズは、『Some observations concerning the woman of Godlyman in Surrey』を刊行し、この事件に対する彼なりの説明と、セント・アンドレとハワードの両名が狂言に関与したのではないかとする疑いを詳述している。[45]

セント・アンドレは、1726年12月9日に、自分の意見を撤回した。1729年にサミュエル・モリノーが中毒死し、彼は、モリノーの未亡人エリザベスと結婚した。これは、彼の同僚にほとんど印象を与えなかった。[46][47]モリノーのいとこは、彼を毒殺で訴え、セント・アンドレは名誉毀損で反訴したが、セント・アンドレとその妻の経歴は後世まで傷つけられることになった。エリザベスは、キャロライン王妃(Queen Caroline)の世話係の職を失い、セント・アンドレは宮廷で公然と屈辱をこうむった。彼らはエリザベスの多額の財産で生計を立て、田舎に引き下がり、そこでセント・アンドレは1776年に、96歳で死亡した。[48][49]マニンガムは、自身の無実を証明しようと躍起になり、彼女の狂言の自白についての説明とともに、自分のメアリー・トフト観察日誌を12月12日に刊行した。このなかで彼は、ダグラスはトフトにだまされていたこと、そしてダグラスは、自身でも説明を公表することによって払拭しようとした自分の印象の低下に責任があることを示唆した。ダグラスもまた「'Lover of Truth and Learning'」という仮名をつかって、1727年に『The Sooterkin Dissected』を刊行した。モーブレー宛ての手紙で、ダグラスは、彼のスターカン説に対して手厳しく批判的であって、それを「あなたの[モーブレーの]脳内の単なる空想」と呼んだ。[50]医学界に加えられたダメージはあまりに大きく、この話と関係のない数人の医師が、自分たちはトフトの話を信じていなかったとの声明を公表せざるを得なくなったほどであった。[42]1727年1月7日にジョン・ハワードとトフトは裁判所に出廷し、ハワードは罰金800ポンド(現在の11.7万ポンドに相当)を科された。[51]彼はサリーに戻り、開業を続け、そして1755年に死亡した。[39][47][52]

群衆は、いまや悪名を馳せたトフトをひと目見たいと、何ヶ月間もトットヒル・フィールズ・ブライドウェル刑務所に押しかけたことが記録されている。彼女はこのときまでに非常に体調が悪くなっており、また拘禁中には肖像画がジョン・ラゲール(John Laguerre)によって描かれた。1727年4月8日に、彼女は結局のところ釈放されたが、これは彼女をどのような罪に問えばよいのか分からなかったからである。[53]トフト家はこの事件から利益をなにも得ず、そしてメアリー・トフトはサリーに戻った。1728年2月に(記録上はユリウス暦で1727年)、彼女は娘エリザベス(Elizabeth)を産んだが、彼女は、「ウサギを産んだという虚言後の第一子」("first child after her pretended Rabett-breeding")とゴダルミング教区記録簿に記された。[54]トフトのその後の生涯はほぼ知られていない。1740年、盗品を受け取ったために投獄されたことがわずかに目立つのみである。彼女は1763年に死亡し、彼女の死亡記事は、貴族のそれと並んでロンドンの複数の新聞に掲載された。[52][55][56]彼女は1763年1月13日にゴダルミングに葬られた。[57]

フランスの訪問者を迎えるセント・アンドレの風刺的な線画。スキャンダルに続いて、セント・アンドレは、どうやら二度とウサギを食べなかったらしい。[58]

この事件は、初代首相ロバート・ウォルポールの政敵らによって、彼らに言わせれば「強欲で堕落した、欺瞞的な」時代を象徴するものとして、引きあいに出された。或る作家は、王太子の情婦宛ての手紙で、事件は王太子の父親の死が近づいている前兆かもしれないと書いた。1727年1月7日に『Mist's Weekly Journal』は、事件を風刺し、政治的変化に暗に言及し、この事件を1641年に議会がチャールズ1世にたいして革命を始めたときと比較した。[59]スキャンダルは、ゴシップライターらが集まるグラブ・ストリート(Grub Street)の住民が数カ月間、冊子や風刺文、風刺詩などを製作するのに十分な材料を提供した。[60]St. André's Miscarriage』(1727年)と『The anatomist dissected: or the man-midwife finely brought to bed』(1727年)のような刊行物で、風刺作家らは、男性助産師の判断力をこきおろし、トフトの診察をした者を批判して、彼らの誠実さを疑い、性的な地口と仄めかしで医療職を遠回しに攻撃した。事件は「文明国」イングランドの格に疑問を投げかけた。ヴォルテールは、短いエッセー『Singularités de la nature』で事件を取り上げ、プロテスタントのイギリス人がいまだに無知な教会の影響下にあることを描いてみせた。[61]

トフトは風刺家らの怒りを避けなかったが、彼らは主に性的あてこすりに集中した。 ウサギのあしあとを表わす普通の18世紀の語 - prick(男性性器の意味もある) - を利用したものもあれば、スカトロジカルなものもあった。しかしながら、『Much Ado about Nothing; or, A Plain Refutation of All that Has Been Written or Said Concerning the Rabbit-Woman of Godalming』(1727年)は、トフトに対するより辛辣な風刺のひとつである。文書は「...彼女自身のスタイルとスペリングによる」("... in her own Stile and Spelling")(正しくは"... in her own Style and Spelling"であろう)「メリー・トフト」('Merry Tuft')(正しくはMary Toftであろう)の告白ということにされている。それは、彼女の非識字をからかい、彼女のふしだらさをほのめかす多くのわいせつなあてこすりをしている —「わたしは、大きな生来の部分の、大きな包容力の、深い仕掛けに関与することができる女でした。」("I wos a Wuman as had grate nattural parts, and a large Capassiti, and kapible of being kunserned in depe Kuntrivansis.")(正しくは"I was a Woman as had great natural parts, and a large Capacity, and capable of being concerned in deep Contrivances."であろう)その文書は、事件に関係した幾人かの内科医を揶揄し、トフトは弱い女性で、「犯罪者ら」("the offenders")のうちで共犯程度は最も小さい(罪状は別として)という、風刺家らによって描かれた、一般的な見解を反映している。この見解は、捏造が露見する前になされた彼女についての表現と対照をなしており、トフトを完全に無力化する総体的戦略を示しているのかもしれない。これは、事件の最も有名な風刺のうちのひとつ、アレキサンダー・ポープとウィリアム・プルトニー(William Pulteney)の匿名の風刺的なバラッド『The Discovery; or, The Squire Turn'd Ferret』に反映されている。[62]それは1726年に刊行され、そしてサミュエル・モリノーにあてつけて、"hare"(野ウサギ)を"hair"(毛)と、"coney"(ウサギ)を"cunny"(女性性器の卑語)と韻を踏ませる。そのバラッドは、次のヴァースで始まる:[63][64]

Most true it is, I dare to say,
E'er since the Days of Eve,
The weakest Woman sometimes may
The wisest Man deceive.

脚注

  1. ^ a b c Todd 1982, p. 27
  2. ^ Haslam 1996, pp. 30–31
  3. ^ a b c d Uglow 1997, pp. 118–119, 121
  4. ^ Wilson, Philip K.; Harrison, B. (2004), “Toft , Mary (bap. 1703, d. 1763)”, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/27494, http://www.oxforddnb.com/view/article/27494 2009年7月27日閲覧。 
  5. ^ Cody 2005, p. 124
  6. ^ a b c Todd 1995, p. 6
  7. ^ a b c Three confessions of Mary Toft, Hunterian Collection of the Library of the University of Glasgow, Bundle 20, Blackburn Cabinet, shelf listings R.1.d., R.1.f., R.1.g. 
  8. ^ a b Haslam 1996, p. 30
  9. ^ Cody 2005, p. 125
  10. ^ Seligman 1961, p. 350
  11. ^ a b Haslam 1996, p. 31
  12. ^ Todd 1995, p. 9
  13. ^ St. André & Howard 1727, pp. 5–6
  14. ^ St. André & Howard 1727, pp. 7–12
  15. ^ St. André & Howard 1727, pp. 12–14
  16. ^ a b c d Seligman 1961, p. 352
  17. ^ a b Todd 1995, pp. 18–19
  18. ^ Todd 1995, p. 19
  19. ^ a b c Todd 1982, p. 28
  20. ^ St. André & Howard 1727, pp. 28–30
  21. ^ St. André & Howard 1727, pp. 20–21
  22. ^ St. André & Howard 1727, p. 32
  23. ^ Seligman 1961, p. 354
  24. ^ a b Cody 2005, p. 126
  25. ^ a b Paulson 1993, p. 168
  26. ^ St. André & Howard 1727, p. 23
  27. ^ Cody 2005, p. 135
  28. ^ Cody 2005, pp. 127–128
  29. ^ Toor, Kiran (2007), “‘Offspring of his Genius’: Coleridge's Pregnant Metaphors and Metamorphic Pregnancies, published in Romanticism, Romanticism (eupjournals.com) 13 (3): 257–270, doi:10.3366/rom.2007.13.3.257, http://www.eupjournals.com/doi/abs/10.3366/rom.2007.13.3.257?cookieSet=1&journalCode=rom 
  30. ^ Bondeson 1997, pp. 129–131
  31. ^ Todd 1995, p. 26
  32. ^ Bondeson 1997, p. 132
  33. ^ Todd 1995, pp. 27–28
  34. ^ Todd 1982, p. 29
  35. ^ Caulfield & Collection 1819, pp. 199–200
  36. ^ a b Seligman 1961, p. 355
  37. ^ Todd 1995, p. 7
  38. ^ Haslam 1996, p. 34
  39. ^ a b “Report on Margaret Toft”, British Journal, (14 January 1727) 
  40. ^ “Report on Margaret Toft”, Mist's Weekly Journal, (24 December 1726) 
  41. ^ Haslam 1996, pp. 28–29
  42. ^ a b Todd 1982, p. 30
  43. ^ Todd 1982, p. 32
  44. ^ Haslam 1996, p. 45
  45. ^ Ahlers 1726, pp. 1–23
  46. ^ Daily Journal”, Daily Journal, (9 December 1726) 
  47. ^ a b Cody 2005, p. 132
  48. ^ Bondeson 1997, pp. 142–143
  49. ^ Todd 1995, p. 11
  50. ^ Lover of Truth and Learning 1726, p. 13
  51. ^ イギリスのインフレ率の出典はClark, Gregory (2017年). “The Annual RPI and Average Earnings for Britain, 1209 to Present (New Series)”. MeasuringWorth. 2019年1月27日閲覧。
  52. ^ a b Haslam 1996, p. 43
  53. ^ Cody 2005, p. 130
  54. ^ Bondeson 1997, p. 141
  55. ^ Bondeson 1997, p. 141
  56. ^ Cody 2005, pp. 131–132
  57. ^ ODNB
  58. ^ Bondeson 1997, p. 143
  59. ^ Cody 2005, p. 131
  60. ^ Bondeson 1997, p. 134
  61. ^ Voltaire 1785, p. 428
  62. ^ Todd 1995, pp. 69–72
  63. ^ Cox 2004, p. 195
  64. ^ Pope & Butt 1966, p. 478

文献目録

読書案内

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「メアリー・トフト」の関連用語

メアリー・トフトのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



メアリー・トフトのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのメアリー・トフト (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS