中国へ渡航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 15:50 UTC 版)
1897年(明治30年)5月清国駐剳全権公使林董の誘いで妻子を残して中国に渡り、北京霞公府街(中国語版)の借家を拠点に城内外を撮影して回った。1900年(明治33年)事業の見通しを得て一旦帰国し、新橋の写真館を従兄弟横田雄寿に譲り、北京に戻った。 当時は中国人経営の写真館がなく、政府要人も訪れて繁盛したが、義和団の乱が起こると休業し、居留民義勇隊に属して一等軍医中川十全の助手や炊事を務め、イギリス公使館(中国語版)西壁下に避難用の穴を掘った。帰国後、戦功により、1901年(明治34年)8月31日勲八等瑞宝章、1902年(明治35年)5月10日従軍記章を受章した。 1901年(明治34年)11月中国に戻り、霞公府街に山本照像(相)館を開いた。1904年5月3日(光緒30年3月18日)頤和園に招かれ、西太后を撮影した。1906年(明治39年)関野貞の古建築・遺跡調査に参加した。
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