伝系の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 10:30 UTC 版)
以前は剛柔流の型は宮城長順が創作したものを除いては、すべて東恩納寛量が中国で習得して沖縄に持ち帰ったものと考えられていたが、近年では様々な疑問が提起されている。 「寅ぬ御冠船」の冊封使祝賀会プログラムの発見 1867年に尚泰王の冊封が終わったことを祝うため、那覇久米村の士族が祝賀会を開催した。そのときのプログラムが戦後出版された(『島袋全発著作集』)。その中に「壱百〇八歩」「ちしやうきん」「十三歩」という型の演武の記録があり、剛柔流に伝わる同名・類似の型が東恩納の渡清以前にすでに沖縄にあったことが証明され、これらの型は東恩納が中国から持ち帰ったという従来の説が疑わしくなった。 東恩納寛量はペッチューリンを指導したのであってスーパーリンペイは指導していない。チソーチンは那覇の湧田の崎山喜徳が得意とした。崎山は劉衛流の開祖仲井間憲里の兄弟弟子であり、その流れは国吉真吉を経て沖縄拳法に受け継がれている。 ルールーコウという名は、中国にはない ルールー(如如)という発音は北京語で、東恩納が学んだとされる福建省の人々は、このような発音をしない。リューリュー(量量)だと、東恩納寛量自身を指すことになる。そもそも中国では、成人男子に対して、こうした重畳詞で呼ぶことはあり得ない。 しかし、子供が親しい間柄で量量哥(リューリューコー、量兄)と呼んだことも考えられる。この事から家族救出の逸話とは矛盾しない。 源流武術が存在しない 日中国交回復後、何十回と現地へ調査団が派遣されたが剛柔流の源流となる門派が特定されていない。これも、白鶴拳は断絶の危機にさらされ、劉銀山がかろうじて伝えた。現在の白鶴拳の套路は近年の再編である。 武器術が併伝されていない 沖縄の空手と違って、中国武術では武器術を併伝するのが普通である。師範代まで昇って武器術を修行してきていないというのはあり得ない。 こうした疑問点から、近年では東恩納寛量はそもそも中国へ渡航していないか、渡航していたとしても中国拳法のごく初歩を修行してきただけで、伝えられる経歴の大半は信憑性の乏しいものと見なす研究者が増えてきている。 以上の観点は剛柔流との比較や、近年の訪中調査の結果である。しかし、東恩流のペッチューリンでは白鶴拳と同じ手形を用いるし、中国拳法でいう後掃腿や、膝を伸ばした蹴上げが存在する。これらの技術から中国拳法由来の確証は形成される。しかし、体系だった技術であったのかは疑問である。
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