土橋一吉とは? わかりやすく解説

土橋一吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/04 14:50 UTC 版)

土橋 一吉(どばし かずよし、1908年5月1日 - 1982年12月17日)は日本政治家労働運動家。衆議院議員日本共産党公認)を通算3期務めた。日本共産党中央委員会顧問。

土橋 一吉
どばし かずよし
生年月日 (1908-05-01) 1908年5月1日
出生地 島根県簸川郡多伎町(現・出雲市
没年月日 (1982-12-17) 1982年12月17日(74歳没)
死没地 東京都立川市
出身校 明治大学法学部
所属政党 日本共産党

選挙区 旧東京7区
当選回数 3回
在任期間 1949年1月23日 - 1950年9月20日
1969年12月27日 - 1976年12月9日
テンプレートを表示

来歴

島根県簸川郡多伎町(現・出雲市)出身。1931年明治大学法学部を卒業し[1]1934年東京中央郵便局へ入る。戦後は全逓信労働組合(全逓、現・日本郵政公社労働組合)結成に関わり、初代委員長に就任[2]全日本産業別労働組合会議(産別会議)副議長として1947年二・一ゼネストを主導した。翌年、1947年12月16日付全逓信従業員組合声明書及び同年12月29日付全逓新聞第79号記事に関する件に関し、衆議院逓信委員会に証人喚問された[3]。同年11月、日本共産党に入党した。

1949年1月の衆院選で、旧東京7区(三多摩地区全域)から出馬し初当選を果たす。この選挙で共産党は、解散前の3議席を劇的に上回る35議席を獲得しているが、共産主義勢力の伸長を懸念したマッカーサーの命により、1950年8月に追放処分が下される(レッドパージ)。

その後、中国へ渡航し1959年帰国。党三多摩対策委員長などを経て、1969年の衆院選に東京7区から出馬し当選、19年振りに国政へ復帰する。1972年の衆院選ではトップ当選を果たすが、1976年の衆院選には東京7区から分区された東京11区から出馬するも落選、地盤を岩佐恵美に譲り引退を表明。

1982年12月17日、膀胱癌により東京都立川市の健生会立川相互病院で死去。74歳。

編著書

参考文献

脚注

  1. ^ 明治大学史資料センター『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年、93頁
  2. ^ 森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十章” (PDF). 2007年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月17日閲覧。
  3. ^ 第2回国会 衆議院 通信委員会 第7号 昭和23年2月9日

関連項目





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「土橋一吉」の関連用語

土橋一吉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



土橋一吉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの土橋一吉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS