政変の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 10:35 UTC 版)
しばしば政変はプロイセン風の憲法を作ろうとする伊藤とイギリス風を目指す大隈の路線対立が原因とみなされることがあるが、伊藤は政変の時点では明確にプロイセン流憲法を目指していたわけではなかった。伊藤は政変前の7月2日に井上毅からプロイセン流の憲法を作るよう求められていたが、伊藤はこの時点でははかばかしい反応を示していなかった。また岩倉も9月に出された井上毅の「内閣職制意見」にあるプロイセン流の天皇親政意見には同意しなかった。 しかし政変によって政府内の保守化が進んだことは確実である。井上毅は政変後の政府の有るべき姿として、「彼レ(福澤)ノ為ル所ニ反スルノミ」と述べたように、政府内からの福澤派の影響は徹底的に排除された。これによって政府内の保守化が進み、かつては排斥されていた島津久光の保守思想が再評価されるに至っている。 辞職した大隈と大隈系官僚は政党結成に動き、立憲改進党設立の母体となる。しかし大隈は明治21年(1888年)に政府復帰し、外務大臣を努めている。大隈の回想によれば、岩倉は明治16年(1883年)に没する直前に「薩長政治家にあやまられて、我が輩(大隈)を退けた事を悔ひ」、謝罪したとされる。 翌明治15年(1882年)1月1日、黒田が参議および開拓長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退いた。これにより政府内は伊藤を中心とする長州閥の主導権が確立された。開拓使も2月8日に廃止され、北海道は函館県、札幌県、根室県に分けられた(三県一局時代)。またこの年には伊藤が憲法調査のためドイツおよびイギリスに留学することになるが、ドイツにおいてローレンツ・フォン・シュタインと出会ったことで、プロイセン流の憲法作成に傾倒していくこととなる。
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