政変の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:27 UTC 版)
明治6年(1873年)、釜山の大日本公館駐在の外務省七等出仕である広津弘信が外務少輔である上野景範に宛てた5月31日付の報告書が契機となって、閣議で朝鮮問題が取り上げられた。この閣議には、太政大臣の三条実美及び参議の西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、大木喬任、江藤新平、後藤象二郎が出席した。板垣は居留民保護のために一大隊の兵を送り、その上で使節を派遣して交渉をすべきだと主張したが、西郷はそれに反対して、まずは責任ある全権大使を派遣して交渉すべしと主張した。 三条は使節は軍艦に搭乗し護衛兵を帯同すべきだと主張したが、西郷はそれにも反対し、烏帽子直垂の正装で非武装の使節を派遣することを主張した。板垣も自説を撤回して西郷の提案に賛成し、後藤象二郎、江藤新平らも賛成し、西郷は自らその使節に当りたいと提議したが、この日は決定には至らなかった。 その後、清国に出張していた外務卿の副島種臣が帰国すると、西郷は板垣に宛てた書簡で使節就任への強い思いを伝え、三条にも閣議開催を要求した。8月上旬には、西郷と同じく朝鮮使節に志願していた副島を訪問して自身の使節就任実現へ向けた協力を求め、その同意を得た。 8月17日、閣議において西郷遣使が内決されたが、岩倉帰国後に再討議されることも決まり、明治天皇の裁可を得た。しかし、西郷の使節派遣は西郷自身も失敗を予想した上で開戦を期した主張であり、交渉不成功の場合は政府は面子上開戦を覚悟しなければならないものだったため、遣欧使節団の岩倉・木戸・大久保は内治優先論の立場からこれに反対し、三条や参議大木らもその意見に同調するようになった。 10月14日、朝鮮問題に関する閣議が開催され、西郷は遣使即行を主張し、大久保や岩倉と対立した。この日は決定には至らず、10月15日に再度閣議が開催され、参議各々に意見を陳述させ、参議を引き取らせた上で三条・岩倉の間で協議が行われた。西郷の圧力とそれに伴う軍の暴発を恐れた三条は、太政大臣としての自らの権限で西郷の即時派遣を決定した。しかしこれに反発した岩倉・大久保らが辞表を提出し、収拾に窮した三条は病に倒れた。10月19日、岩倉が太政大臣代理となり、10月23日に三条の裁断による即時派遣か、岩倉自身の考えである遣使延期かという2つの意見を上奏した。これを受けて10月24日に明治天皇は遣使を延期するという裁断を行った。政変に破れた西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野することとなった。
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