政変前の政府構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 22:10 UTC 版)
「明治十四年の政変」の記事における「政変前の政府構造」の解説
明治11年(1878年)5月に大久保利通が暗殺され、政府の中枢を担う内閣は参議伊藤博文が主導権を握る形となった。大蔵卿を兼ね、財政における実力者であった大隈も伊藤の立場を認め、「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と伊藤を支える意思を表明している。薩摩派からは伊藤に対抗する存在として期待されていたが、伊藤の盟友である井上馨の参議就任にも協力するなど、伊藤に敵対する素振りは見せなかった。 しかし明治13年(1880年)頃には大隈発案による外債募集を巡って伊藤らと意見を違え、長州閥と対立することも起きていた。7月頃には井上が伊藤に、大隈を駐ロシア大使に左遷する案が参議の間で出ていると述べ、8月には伊藤が右大臣岩倉具視に対し、大隈を開拓使長官にしてはどうかと提案している。 一方で大隈は明治11年頃から福沢諭吉と親交を深めるようになり、慶應義塾への資金援助や横浜正金銀行の設立問題等で協力するようになった。
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