参議就任
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陸奥国に胆沢城と志波城を築いたこともあり、延暦23年1月19日(804年3月4日)、桓武朝第四次蝦夷征討が計画されると、7ヵ国が糒1万4315斛・米9685斛を陸奥国小田郡中山柵に搬入するよう命じられている。これを受けて田村麻呂が1月28日(804年3月13日)に征夷大将軍に任命され、副将軍には百済教雲・佐伯社屋・道嶋御楯の3名が、そして、軍監8人・軍曹24人が任命されている。 同年5月15日(804年6月25日)、危急に備えて志波城と胆沢郡の間に1駅を、11月7日(804年12月12日)には栗原郡に3駅を置くことなどが決まり、朝廷も蝦夷征討に向けて準備を整えていく。 この頃は平安京にいた坂上田村麻呂は、延暦23年5月に造西寺長官を兼務すると、8月7日(804年9月14日)には桓武天皇の巡幸の際の行宮の地を定める使者として和泉国と摂津国に派遣され、10月8日(804年11月13日)に和泉国藺生野(現在の大阪府岸和田市)にて行われた狩猟に随従して桓武天皇に物を献上すると、綿200斤を賜った。この頃の肩書きは「征夷大将軍従三位行近衛中将兼造西寺長官陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」であった。 延暦24年6月23日(805年7月22日)、48歳の時に坂上氏出身者として初めてとなる参議に就任した。同年10月19日(805年11月13日)、清水寺に寺印1面を賜ると、永く坂上氏の私寺とすることを認める太政官符が発符された。11月23日(805年12月17日)には坂本親王の加冠に列席して衣を賜った。
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