参謀長再任
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「アブドゥル・ハリス・ナスティオン」の記事における「参謀長再任」の解説
公職追放から3年後、1955年10月27日、ナスティオンは再び陸軍参謀長に任命された。直ちにナスティオンは陸軍と軍構造についての仕事に取りかかり、その手段として、三重のアプローチを取った。第1のアプローチは、勤務期間システムを作り上げることである。これによって士官は平時から国家のすみずみにまで常駐し、その派遣先での経験を積み重ねることができるようになった。このアプローチによって、陸軍士官は自分の出身地である州・地方に個人的感情、忠誠心を示すのではなく、よりプロフェッショナルな存在へと様変わりした。第2のアプローチは、軍の訓練システムを一元化することである。それまで地方司令官が独自のメソッドで部隊を訓練していたのをあらため、すべての訓練メソッドが統一化された。最も重要なのは第3のアプローチである。それは陸軍の影響力と権力を増大させるために、文民の決定に頼ることなく、自前で自らの組織を維持することであった。ナスティオンは前2者の方法の実施には問題ないとしたが、3番目の方法には慎重だった。 1945年11月以来インドネシアが採用してきた議会制民主主義に幻滅していた大統領スカルノは、1957年になるとその解決策として、指導される民主主義の概念を演説のレトリックの中に取り入れはじめた。スカルノは、議会制民主主義への幻滅を共有するという点では、1952年に文民が軍に介入したことを忘れていなかったナスティオン、陸軍とも盟約を結ぶことができた。1957年3月14日、アリ・サストロアミジョヨ内閣が総辞職すると、スカルノは国家非常事態宣言を発した。 こうした流れは、1950年憲法に制約され、形式上の役割しか与えられていなかったスカルノ大統領の存在感を高め、ナスティオンが求めていた陸軍の影響力と権限を増大させることにもつながった。こうした権力の再配置の中で、地方軍管区司令官は、文民の所管事項である経済・行政部門にも介入することが可能となった。スカルノ自身の命により、軍人が閣僚・州知事・国会議員の地位を得て、政治に浸透できるようになった。1957年12月、さらにナスティオンは軍に命じて、スカルノによって国有化宣言されたオランダ系の会社を接収させた。これは陸軍の役割をますます増大させるとともに、手強いインドネシア共産党 (PKI) の影響力拡大を阻止する狙いもあった。 1958年、ナスティオンは後にスハルト体制期の国軍が採用する二重機能 (Dwifungsi) ドクトリンの基礎となる、有名な演説を行なった。新しく中部ジャワのマグランに設立された士官学校における演説で、ナスティオンは、国家と向き合うにあたって国軍は「中道」路線を取るべきであると言明した。ナスティオンによると、国軍は文民の統制下に置かれるべきではなく、同時に、軍事政権として国家を支配下に置くべきではないと語った。
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