参謀総長就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 00:55 UTC 版)
「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」の記事における「参謀総長就任」の解説
1871年の普仏戦争に第7擲弾兵連隊で従軍。1875年に士官学校入学し、1878年に卒業。1880年よりプロイセン参謀本部で勤務し、1882年に大モルトケの副官となり、1891に伯父が死去するとドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の副官を務めた。1902年に近衛第1歩兵師団長に任命され、1904年に参謀次長に任命される。 1906年に退役したアルフレート・フォン・シュリーフェンの後任として参謀総長に就任する。この人事は参謀本部内では不評だったが、祖父ヴィルヘルム1世に倣い「自分のモルトケを持ちたい」と願うヴィルヘルム2世の強い希望により押し通された。これに加え、参謀総長候補に挙げられていたカール・フォン・ビューロウとコルマール・フォン・デア・ゴルツは自立心が強く、ハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーはシュリーフェンに近かったためヴィルヘルム2世に忌避され、自身の側近であるモルトケを選んだという:68:71。モルトケは1909年に最高勲章である黒鷲勲章を授与されるなど、ヴィルヘルム2世から絶大な信頼を寄せられていた。 参謀総長就任間もなく、モルトケは対仏侵攻計画シュリーフェン・プランの改訂を行い、シュリーフェンが計画した右翼を重視する作戦を放棄して均等に割り振り、中央部を厚くした。このため右翼をやや小さくし、回転半径も小さくした。シュリーフェン・プランの原案は当時の補給技術を考えれば実現不可能な物ではあったが、その修正案でも最終的に兵站上の問題は先送りにされたままだった。
※この「参謀総長就任」の解説は、「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」の解説の一部です。
「参謀総長就任」を含む「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」の記事については、「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」の概要を参照ください。
- 参謀総長就任のページへのリンク