ドイツ軍参謀総長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:39 UTC 版)
「クルト・ツァイツラー」の記事における「ドイツ軍参謀総長」の解説
第二次世界大戦勃発とともに第14軍第22軍団参謀長となり、ポーランド侵攻に従軍。1940年3月にエヴァルト・フォン・クライストのA装甲集団参謀長となり、西方電撃戦、バルカン戦線 (第二次世界大戦)、バルバロッサ作戦に従軍。1941年5月18日、戦功により騎士鉄十字章を授与される。同年10月、第1装甲軍参謀長に任命され、開戦初頭にソ連軍を分断して快進撃を続けた。ツァイツラーは部隊の進撃を維持するため兵站確保に最善を尽くし、上官であるクライストから称賛を受けた。 1942年2月に少将に昇進し、4月にはゲルト・フォン・ルントシュテットのD軍集団参謀長に任命される。同年9月24日に歩兵大将に昇進し、アドルフ・ヒトラーと対立して更迭されたフランツ・ハルダーの後任として陸軍参謀総長に任命される。ツァイツラーの参謀総長就任は、彼の報告が楽観的な調子に満ちていることをヒトラーに買われてのもので、序列からいえばきわめて異例な人事だった。彼は組織運用と兵站確保に能力を発揮したが、最終的にヒトラーの無理難題に悩まされることになった。 参謀総長就任直後のスターリングラード攻防戦においては、ツァイツラーはスターリングラードに包囲されたフリードリヒ・パウルスの第6軍の脱出を具申し、心労のあまり飢える第6軍の兵士たちと同量の食事しか摂らず痩せ細ったが、ヒトラーは最後まで第6軍の撤退・救出を拒み、マルティン・ボルマンから彼がダイエット中と説明されたため、「ダイエット」をやめるよう命じたという。しかし、第6軍の降伏後、モスクワおよびレニングラード前面からの後退を勧めたツァイツラーの具申は受け入れられた。 1944年1月30日にアルフレート・ヨードルと共に上級大将に昇進。しかし、ツァイツラーが担当する東部戦線の戦局は日に日に悪化し、クリミア半島を失いクルスク攻勢も成功しなかった。また、西部戦線でも6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦を決行した。強気のヒトラーとは対照的に、戦線維持に悲観的だったツァイツラーは自らの参謀長解任を申し出たが、ヒトラーに拒まれた。1944年6月9日、ベルヒテスガーデンのベルクホーフ山荘でヒトラーと戦況を協議していたツァイツラーは発作で倒れた(神経衰弱に陥ったツァイツラーが無断でベルクホーフを立ち去ったため、病気ということにされたともいう)。翌月10日にツァイツラーは解任され、後任にハインツ・グデーリアンが任命されるまでアドルフ・ホイジンガーが職務を代行した。
※この「ドイツ軍参謀総長」の解説は、「クルト・ツァイツラー」の解説の一部です。
「ドイツ軍参謀総長」を含む「クルト・ツァイツラー」の記事については、「クルト・ツァイツラー」の概要を参照ください。
- ドイツ軍参謀総長のページへのリンク