陸軍参謀総長
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陸軍参謀総長(りくぐんさんぼうそうちょう)は、陸軍軍人の最高位。
日本の陸軍参謀総長
大日本帝国陸軍:参謀総長(陸軍参謀総長) - 参謀本部 (日本)#歴代参謀総長を参照。
陸上自衛隊:陸上幕僚長
各国の陸軍参謀総長
アメリカ陸軍:アメリカ陸軍参謀総長
- プロイセン陸軍:プロイセン参謀本部#歴代参謀総長を参照。
- ドイツ帝国陸軍:同上
- ドイツ国防軍陸軍:同上
- 大韓民国陸軍:大韓民国陸軍参謀総長(대한민국의 육군참모총장) - 大韓民国陸軍#歴代参謀総長を参照。
- 陸軍参謀総長 (イギリス)
関連項目
陸軍参謀総長
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「ダグラス・マッカーサー」の記事における「陸軍参謀総長」の解説
1930年、大統領ハーバート・フーヴァーにより、アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命された。このポストは大将職であるため、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付き、マッカーサーとアイゼンハワーの今後大統領選にまで続く長くて有名な関係が始まった。アイゼンハワーはウェストポイントを平均的な成績で卒業していたが、英語力に極めて優れており、分かりやすく、構成のしっかりした、印象的な報告書を作成することに長けていた。アイゼンハワーはパーシングの回顧録記述の手伝いをし、第一次世界大戦におけるアメリカ陸軍の主要な公式報告書の多くを執筆した。マッカーサーはこうしたアイゼンハワーの才能を報告書を通じて知ると、参謀本部の年次報告書などの重要な報告書作成任務のために抜擢したのであった。マッカーサーはアイゼンハワーが提出してきた報告書に、自らが直筆した称賛の手紙を入れて返した。アイゼンハワーはその手紙に感動して母親に見せたが、母親はさらに感激してマッカーサーの手紙を額に入れて飾っていた。 前年の「暗黒の木曜日」に端を発した世界恐慌により、陸軍にも軍縮の圧力が押し寄せていたが、マッカーサーは議会など軍縮を求める勢力を「平和主義者とその同衾者」と呼び、それらは共産主義に毒されていると断じ、激しい敵意をむき出しにしていた。当時、アメリカ陸軍は世界で17番目の規模しかなく、ポルトガル陸軍やギリシャ陸軍と変わらなくなっていた。また兵器も旧式であり、火砲は第一次世界大戦時に使用したものが中心で、戦車は12両しかなかった。しかし議会はさらなる軍事費削減をせまり、マッカーサーの参謀総長在任時の主な仕事は、この小さい軍隊の規模を守ることになった。 1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る事件(ボーナスアーミー)が発生した。全国から集まった退役軍人とその家族は一時、22,000名にも上った。特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され、連邦政府に対する革命行動を煽っている、と根拠のない非難をおこなった。退役軍人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの交通費の支給などの懐柔策で、少しずつであるが解散して行った。しかし、フーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもかかわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が警察と軍に、デモ隊の排除を命令した。マッカーサーはジョージ・パットン少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令に反し、アナコスティア川を渡河して退役軍人らのテント村を焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた。マッカーサーは夜の記者会見で、「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と鎮圧行動は正当であると主張したが、やりすぎという非難の声は日増に高まることとなった。 マッカーサーは自分への非難の沈静化を図るため、ボーナスアーミーでの対応で非難する記事を書いたジャーナリストのドルビー・ピアソンとロバート・S・アレンに対し、名誉棄損の訴訟を起こすが、かえってジャーナリストらを敵に回すことになり、ピアソンらは当時関係が破局していたマッカーサーの恋人イザベルの存在を調べ上げると、マッカーサーが大統領や陸軍長官など目上に対して侮辱的な言動をしていたことや、私生活についての情報をイザベルより入手している。その後、マッカーサーとピアソンらは名誉棄損の訴訟を取り下げる代わりに、スキャンダルとして記事にしないことやイザベルに慰謝料を払うことで和解している。 フーヴァーはボーナスアーミーでの対応の不手際や、恐慌に対する有効な政策をとれなかったため、フランクリン・ルーズベルトに大統領選で歴史的大敗を喫して政界を去ったが、ルーズベルトもフーヴァーと同様に、不況対策と称して軍事予算削減の方針であった。マッカーサーはルーズベルトに「大統領は国の安全を脅かしている、アメリカが次の戦争に負けて兵隊たちが死ぬ前に言う呪いの言葉は大統領の名前だ」と辞任覚悟で詰め寄るが、結局陸軍予算は削減された。マッカーサーはルーズベルトが進めるニューディール政策には終始反対の姿勢であったが、ルーズベルトがニューディール政策の一つとして行った CCC(民間資源保存局)による失業者救済に対し、陸軍の組織力や指導力を活用して協力し、初期の成功に大きく貢献している。 この頃のマッカーサーは公私ともに行き詰まりを感じて、自信喪失に苦しんでおり、時々自殺をほのめかすときがあった。その度に副官のトーマス・ジェファーソン・デービス(英語版)大尉などがマッカーサーに拳銃を置くように説得したが、ある日、マッカーサーとデービスが公務で一緒に汽車に乗り、その汽車が、マッカーサーの父アーサーが南北戦争時に活躍した戦場の付近を通ったとき、マッカーサーがデービスに「私は陸軍と人生において、出来得る限りのことをやり終え、今や参謀総長としての任期も終わろうとしている。テネシー川の鉄橋を通過するとき、私は列車から飛び降りるつもりだ。ここで私の人生は終わるのだ」と語りかけてきた。このようなやりとりにうんざりしていたデービスは「うまく着水できることを祈ります」と答えると、マッカーサーはばつが悪い思いをしたのか、荒々しくその客車を出て行ったが、後ほどデービスに感情的になっていたと謝罪している。 マッカーサーは史上初の参謀総長再任を希望し、ルーズベルトもまた意見は合わないながらもその能力を高く評価しており、暫定的に1年間、参謀総長の任期を延長している。
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