破局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/15 17:15 UTC 版)
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破局(はきょく)とは、事態が健常な状態を維持することが不可能になり滅するという形で終焉を迎えるということ。
多くの場合、男女関係においてこの言葉が使われており、その場合は深い間柄で交わりを持っていた男女が不仲となり別離するということが意味されている。大抵の場合は恋人同士が分かれる時に使われているが、夫婦生活を終える離婚を意味するときにも使われることがある[1]。芸能人の恋愛関係に関する破局はしばしば大衆の注目の的となっており、事態が発するたびにメディアをにぎわせている。
社会心理学の調査研究では、一旦親しくなった対人関係が破局に至る要因として、両者の属性・特性の落差、親密さ(関与度)の低下、当事者のパーソナリティに起因した社会的消極性、そして性差による認知能力・コミュニケーション行動のギャップが挙げられている[2]。
破局のメカニズム
社会心理学では、親密なパートナー関係の維持や破局のメカニズムについて、いくつかの理論やモデルが提唱されているが、大きく分けて社会的交換理論に基づいた交換モデルと、関係の親密化から別離までを一連のプロセスとして考える適合性モデルの2つに分けられる[3]。
交換モデル
交換モデルとは、パートナーと付き合うことによって発生する損得が関係の維持を左右するという考え方である[3]。ここでいう損得は金銭や物品の移動に限らず、欲求の充足やパートナーからの愛情といった報酬に対して、パートナーに費やした時間やエネルギーをコストとする、人と人との相互作用の全般を指す。一緒にいると楽しく感じるという感覚がコストを上回っていれば関係は良好に続くが、それが逆転すると不満を感じ、関係の停滞や崩壊へとつながる可能性が高まるとされる。
適合性モデル
適合性モデルでは、パートナーとの関係深化を複数の段階に分け、ある段階から次の段階に移行する条件を近接性や外見的魅力、役割適合などで吟味する。このうち、破局に至る段階では対人的な葛藤や食い違いが要因として挙げられる[4]。
たとえば、M・L・ナップの関係発展モデルでは、関係の崩壊を以下の5つの段階に仮定して説明している[3]。
- 食い違い
- それまで相手のチャームポイントとして感じられていた部分が食い違いとして認識されるようになる
- 境界化
- コミュニケーションが限定的となる。特に、食い違いとして認識された部分に触れることは極力回避する
- 停滞
- さらに関係が後退し、表面的なコミュニケーションに留まる
- 回避
- 物理的に距離を取るようになる
- 終焉
- 社会的・法律的な別離へと至る
それぞれの段階にかけられる時間はさまざまであり、ある段階から進行せずに安定化する場合や、関係が改善して逆行する場合もある。逆に、途中のステップを飛ばして急激に進行してしまう場合もあり得る。
脚注
参考文献
- 大坊郁夫、二宮克美、子安増生(編)、2011、「関係の崩壊」、『社会心理学』、新曜社〈キーワードコレクション〉 ISBN 9784788512368
- 多川則子、吉田俊和、橋本剛、小川一美(編)、2012、「なぜ恋愛感情は浮き沈みするのか?」、『対人関係の社会心理学』、ナカニシヤ出版 ISBN 9784779506932
破局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 04:06 UTC 版)
「フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデ」の記事における「破局」の解説
これに先立つ1521年4月から5月にかけて、5隻のポルトガル船がタマオに入港していた。しかし正徳帝の死により、彼らも地元当局から立ち退きを要求された。ポルトガル人がこれを拒絶したため、明当局は艦隊を派遣してポルトガル船を沈め、多くのポルトガル人を殺し、残りを捕虜とした(屯門の戦い)。6月にはさらに2隻のポルトガル船がやってきた。彼らは中国船の攻撃を受けたが、逃げ延びることができた。9月にも3隻のポルトガル船が来航し、かろうじて明軍の攻撃をかわした。フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデやトメ・ピレスら使節団が広東に帰ってきたのはこの月だった。明当局はアンドラーデらに捕虜との面会を認めず、ポルトガル人の船から奪った物品を整理していた。 1522年8月、マルティム・アフォンソ・デ・メーロ・コウティーニョが3隻の船を率いてタマオに到来した。彼もまた中国での貿易を行う許可を明から得るために来ていて、戦闘の準備はしていなかった。明水軍の奇襲を受けたポルトガル艦隊は2隻を沈められ、1隻のみがポルトガルに逃げ帰れた(西草湾の戦い)。明軍が圧勝を続けた理由としては、これ以前からのポルトガル人との接触を通じて後装式のフランキ砲を入手していたことも挙げられる。広東ではいち早く査係広東按察使の汪鉉がポルトガル式兵器の導入を提言して蜈蚣船と呼ばれる新式船を建造し、フランキ砲を載せて西草湾の戦いに投入した。内陸でも、既に1519年の江西の反乱を王陽明が鎮圧した際にフランキ砲が用いられていたという記録がある。 最終的に、ポルトガル人の捕虜たちは1523年に「外海での強盗行為」および食人の罪で処刑された。ただしトメ・ピレスはポルトガル王やインド副王、マラッカ総督に向けて書簡を出させるために囚人のまま留め置かれた。彼の手紙は、新たに即位した嘉靖帝からの「ポルトガル人はマラッカを離れ、これを正当ながら追放されていた王のもとに返すべきである」という書簡とともに各方面に送られた。フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデに関しては、この間に獄死したとする文献もあるが、弟シモンの行状などから本物の使節ではないと疑われ、信任状偽造の罪を着せられて他のポルトガル人とともに斬首されたとするものもある。トメ・ピレスは中国から出られないまま獄死した。その年については1524年とするものと1540年とするものの2説がある。少なくとも1536年ごろの時点では使節団のうち2人が生存していて、マラッカやゴアに向けて、ポルトガルが広東を力ずくで奪うための詳細な計画を書き送っている。こうした生存者たちは、広東のLampaco(Lampa)という貿易拠点に隠棲していた。1537年の時点で、ポルトガルは広東にLampa、上川島、マカオという3つの貿易拠点を有していた。といっても公式に貿易を許されたわけではなく、表向きは嵐で濡れた積み荷を乾かす場として認められただけだった。
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