戦闘の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:41 UTC 版)
「アイランドNo.10の戦い」の記事における「戦闘の準備」の解説
テネシー州ヘンリー砦とドネルソン砦の降伏に続いて、ケンタッキー州コロンバスは明け渡し、南軍ミシシッピ軍の指揮官P・G・T・ボーリガード将軍は、コロンバスから約60マイル (100 km)下流のミシシッピ川ケンタッキー・ベンド(大きな屈曲部)にあるアイランドNo.10を選んで、川を守るための強固な陣地とした。南軍の防御設備は島にある砲台と島の岸から離れた浮き砲台だった。近くにはニューマドリッドの町があり、弱点の一つだった。 北軍のミシシッピ軍指揮官のジョン・ポープ准将は2月28日にミズーリ州コマースを進発し、ニューマドリッド攻撃に向かった。部隊は物資や大砲を引っ張りながら沼地を行軍した。M・ジェフ・トンプソン准将が指揮するミズーリ州兵の小さな派遣部隊と交戦した後、3月3日にニューマドリッド郊外に到着した。ポープは町が重火砲や砲艦の小さな戦隊でうまく守られているのを見出して、包囲線を布いた。守備隊の指揮官ジョン・P・マッカウンはニューマドリッドとアイランドNo.10の双方を守っていた。3月13日、ポープはその攻囲砲を持ち出し、1日中砲撃戦を続けた。南軍の砲艦と部隊はニューマドリッドを守ることが不可能と思われてきたので、町を明け渡し、アイランドNo.10とテネシー州側のティプトンビルに全軍を移動した。
※この「戦闘の準備」の解説は、「アイランドNo.10の戦い」の解説の一部です。
「戦闘の準備」を含む「アイランドNo.10の戦い」の記事については、「アイランドNo.10の戦い」の概要を参照ください。
戦闘の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/26 23:28 UTC 版)
「ハニースプリングスの戦い」の記事における「戦闘の準備」の解説
ハニースプリングスは南北戦争の前までテキサス道路にある駅馬車の停車場だった。主要な呼び物は幾つかの泉があることであり、人と馬に水を供給していた。雑貨店、病院があった他に、兵士のための多くのテントがあった。1863年、南軍が約6,000名の兵士をこの地点に派遣した。食料などはスミス砦、ボギー駅、コブ砦、アーバックル砦、ウォシタ砦から供給されていた。しかし、南軍はキャビンクリークの戦いで北軍の200両もある輜重隊の進行を止めることができなかった。この補給部隊はギブソン砦に到着したのは、ブラント将軍自身が到着したのとほぼ同じ頃となり、ブラントは兵士や大砲を更に連れて来ていた。砦の北軍は約3,000名になった。 スコフィールド将軍の戦闘後報告書に拠れば、ブラントは7月11日にその地域に到着していた。アーカンザス川の水位が上がっていたので、ブラントは兵士にボートを作って部隊を渡し始めるよう命じた。この間にブラントは脳炎を患っていたようである。というのも7月14日は高熱と戦ってベッドに臥せっていなければならなかったからである。 南軍は勢力的に優勢であると考え、南軍はギブソン砦の北軍に対して反撃を行う作戦を立てた。戦力はクーパーのインディアン部隊にテキサス兵を幾らか付け、さらにスミス砦で宿営していたウィリアム・キャンベル准将の3,000名を付けることにした。キャンベル隊はハニースプリングスに7月17日までに到着する予定だった。クーパーは南軍の重要な補給基地であるハニースプリングスに部隊を進め、行軍して来ているキャベルの旅団を待つ間に休息と装備を行っていた。ブラント将軍の北軍はクーパーの作戦に関する情報を得ており、キャベルの部隊が到着して南軍が数的に優勢になる前に先制攻撃を行うことにした。ブラントの指揮下にあったのは五部族全てから徴兵したインディアン準州軍3個連隊、カンザス第1有色人歩兵連隊、白人の騎兵2個大隊(カンザス第6騎兵隊とウィスコンシン第3騎兵隊)、コロラド第2歩兵連隊の6個中隊で構成される白人歩兵大隊、およびカンザス砲兵2個大隊だった。
※この「戦闘の準備」の解説は、「ハニースプリングスの戦い」の解説の一部です。
「戦闘の準備」を含む「ハニースプリングスの戦い」の記事については、「ハニースプリングスの戦い」の概要を参照ください。
- 戦闘の準備のページへのリンク