ボニャークのポロヴェッツ誘引
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:51 UTC 版)
「キプチャク」の記事における「ボニャークのポロヴェッツ誘引」の解説
「トルベジュ川の戦い (1096年)」も参照 1096年5月24日、ボニャークがポロヴェッツ人を率いてキエフの近郊を破壊し、ペレストーヴォにおいて侯の邸を焼き払った。この時クリャがポロヴェッツ人を率いてペレヤスラヴリの近郊を攻め、ウースチエを焼き払った。一方オレーグはスタロドゥープから出て、スモレンスクに来たが、スモレンスクの人々が彼を受け入れなかったので、リャザニに向かい、スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフは帰途に着いた。5月31日、スヴァトポルク2世の岳父トゥゴルトカンがペレヤスラヴリに来て、町の近くに留まると、ペレヤスラヴリの人々は町に籠城した。スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフはドニェプル川の向こう岸に沿って兵を進め、ザループに来てそこで川を越えた。ポロヴェッツ人は彼らに気付かなかった。彼らは戦闘の準備を整えて町に向かった。町の人々は彼らを見て喜び、彼らを出迎えた。ポロヴェッツの軍隊は、戦闘の準備を整えて、トルベジ川の向こう側に留まっていた。スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフはポロヴェッツに向かってトルベジ川を徒渉で越えた。ヴラヂミル2世モノマフは親衛隊に命令を与えようとしたが、親衛隊はそれを聞かず、馬にまたがり、敵に向かって突進した。これを見てポロヴェッツ人は逃げ出し、ルーシ軍は敵を撃ち殺しつつ、その後を追った。彼らの侯トゥゴルトカンが死んでいるのを発見し、スヴァトポルク2世はその遺骸を自分の岳父かつ敵として収めた。その後、彼をキエフに運び、ペレストーヴォにおいてペレストーヴォに通ずる道と修道院へ通ずる他の道との間の墓に彼を葬った。6月15日、ボニャークが再びキエフに襲来した。ポロヴェッツはほとんど町に侵入せず、町の近くの「岸地(ボロニエ)」に火を放って修道院の方へ向かい、ステファン修道院及び村々ならびにゲルマン修道院を焼き払った。
※この「ボニャークのポロヴェッツ誘引」の解説は、「キプチャク」の解説の一部です。
「ボニャークのポロヴェッツ誘引」を含む「キプチャク」の記事については、「キプチャク」の概要を参照ください。
- ボニャークのポロヴェッツ誘引のページへのリンク