ボニファティウス、ドナーアイヒェ、市の創立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/17 20:08 UTC 版)
「フリッツラー」の記事における「ボニファティウス、ドナーアイヒェ、市の創立」の解説
文献上の最初の記録は、724年の聖ボニファティウス(ヴィンフリートとも呼ばれる)にまで遡る。彼は、その1年前にガイスマー(現在はフリッツラーの市区)でドナーアイヒェ(ゲルマン族の神木であるオークの木)を切り倒した。12世紀から14世紀に建造されたロマネスク=ゴシック様式の聖ペーター教区教会(通常は大聖堂と呼ばれる)は、ドイツの伝道者であるボニファティウスが切り倒したドナーアイヒェの木材から724年に礼拝堂を建てた場所にあるという伝承がある。このオークは、カッティ族がドナーに捧げた木で、ゲルマン族にとって最も重要な神木であった。ボニファティウスはカッティ族にキリスト教の神の優越性を示すためにこれを切り倒したのである。このできごとは、中部および北部ドイツの部族に対するキリスト教化が始まったことを象徴したものである。ボニファティウスが木材を再利用したとは考えにくく、異教の聖域だった村にドナーの文化が再興しないように支配することもなかったであろう。高い確率であったことは、現在聖堂が建っている丘陵の上にかつてドナーアイヒェがあったということだけである。 ヘッセン北部の、カッティ族が定住するフランク族とザクセン族との境界領域の布教活動のためにボニファティウスは、フリッツラーの対岸にあたるエーダー川南岸にあるビューラベルク山上に位置するフランク族のビューラブルクを、その拠点とした。布教が進むと、742年、ビューラブクルにリメスの東側で初めて司教が立てられた。その初代にして唯一の司教ヴィッタスの死後(ヘルスフェルト修道院に埋葬されている)、新たな司教は立てられず、ボニファティウスの弟子でマインツ大司教を継いだルルスによってマインツ大司教区に併合された。これ以後フリッツラーはマインツ大司教区を組織する上で重要な役割を果たした。聖ペーター教会の首席司祭は、同時にマインツ大司教の司教座聖堂助祭長を務めたのである。 ボニファティウスによって 724年に創設されたベネディクト会修道院は修道院長ヴィクベルトの下で発展し、以後の時代には聖界・俗界の学識センターとなった。後のフルダ修道院長シュトゥルミも学んだ修道院学校は、ドイツ最古の学校組織ではないものの、修道院および神学に特化された教育プログラムについてはシュトゥルミの伝記に記述されている。ボニファティウスが大司教に任命された後、732年頃に新たな石造教会が建設された。同じ頃、初めて皇帝の居館をこの街に築いたカール大帝は、この修道院に国家による保護と広大な領地を授け、782年に帝国修道院に昇格したことにより、周囲の集落は急速に都市へと発展していった。ボニファティウスを範とする伝道が果たされたことにより、この修道院は遅くとも1005年までには学問の場に変わっていった。修道院参事会員は、もはや修道院での共同生活を行わず、それぞれの家に住むようになった。そのいくつかは14世紀に建造されたものもあり、現在も街の景観を形成してる注目すべき建造物となっている。この修道院は1803年に世俗化と、市がヘッセンに占領されたことにより廃止された。この修道院学校の最も有名な生徒は、1200年頃に活動した詩人のヘルボルト・フォン・フリッツラーである。
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