大聖堂(カセドラル)
収載図書THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER 3 大聖堂
出版社中央公論社
刊行年月1990.5
収載図書Carver's Dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選
出版社中央公論社
刊行年月1994.12
収載図書ニュー・ミステリ―ジャンルを越えた世界の作家42人
出版社早川書房
刊行年月1995.10
収載図書CARVER'S DOZEN―レイモンド・カーヴァー傑作選
出版社中央公論社
刊行年月1997.10
シリーズ名中公文庫
大聖堂
大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/18 05:23 UTC 版)
大聖堂(だいせいどう)は、キリスト教の宗教建築の種別のひとつ。語義には教派によって差がある。日本のカトリック教会では「カテドラル」との片仮名表記も頻繁に用いられるが、日本の他教派ではこれはあまり用いられない。
- ^ 仙台ハリストス正教会の聖堂は生神女福音聖堂であり、主教座聖堂であっても大聖堂の呼称は用いられていない。
- ^ 御茶ノ水の泉通信 - 主教座大聖堂であるニコライ堂の正式名称を「東京復活大聖堂」と表記している。なお、ロシア語による表記は Собо́р Воскресе́ния Христо́ва 、直訳すれば「ハリストス復活大聖堂」。
- ^ 東方正教リンク集 - アレクサンドル・ネフスキー大聖堂(ブルガリア語: Храм-паметник Свети Александър Невски 、直訳すれば「聖アレクサンドル・ネフスキー記憶聖堂」)を「聖アレクサンドル・ネフスキー総主教座大聖堂」と表記している。
- ^ 事例:聖イサアク大聖堂。公式サイトにもあるようにИсаакиевский соборとも呼ばれるが、同サイト内のこちらのページではКафедральный храм Российской Империиと表記されている。
- ^ 日本正教会では該当する訳し分けがこの語について存在しない。「小礼拝堂」の訳語出典:『ロシア語ミニ辞典』416頁、白水社(2008年2月10日第8刷) ISBN 9784560000670。但し同辞典は全てについてではないが、479頁の項目別語彙集「教会」等において、比較的日本正教会の訳語を尊重している。
- ^ ただし司教座聖堂であっても、幟町教会(世界平和記念聖堂・広島司教区)や大名町教会(福岡司教区)、浦上天主堂(長崎大司教区)など慣習的に「大聖堂」とはほとんど呼ばれないものもある。
- ^ ブダペストの聖イシュトヴァーン大聖堂(Szent István-bazilika)など。なお、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂もイタリア語では Basilica di San Pietro と呼ばれる。
- ^ 世界文化遺産に登録されているケルン大聖堂(Kölner Dom)、神聖ローマ皇帝の選帝侯であったマインツ大司教のマインツ大聖堂(Mainzer Dom)等、枚挙にいとまがない。
- ^ ドイツ南西部にあるフライブルク大聖堂(Freiburger Münster)等。
- ^ 出典:日本聖公会 東京教区
- ^ 聖パトリック大聖堂は19世紀後半よりアイルランド聖公会において、アイルランド島全体のカテドラルと位置づけられており、首席司祭(Dean)の下に島内の12の主教管区から派遣された聖堂参事が置かれるという体制となっている。
- ^ 僅かな例外は存在しており、エヴァンジェリカル・オーソドックス教会には主教が存在する。
- 1 大聖堂とは
- 2 大聖堂の概要
- 3 日本の結婚式場における「大聖堂」
大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 14:13 UTC 版)
「聖デイヴィッド大聖堂」の記事における「大聖堂」の解説
1115年、ノルマン朝の支配する地域において、イングランド王ヘンリー1世は、セント・デイヴィッズ主教(英語版)としてノルマン人主教ベルナルド(Bernard、1115-1147年)を任命した。彼は始めに修道院内の活動を改善し、そして新しい大聖堂の建設に着手した。1123年、教皇カリストゥス2世は、セント・デイヴィッズに教皇の特権(英語版)を授け、教皇は、そこを西洋の巡礼の中心として、「セント・デイヴィッズの2度の巡礼はローマ(バチカン)への1度の巡礼と等しく、3度の巡礼はエルサレムへの1度と同等である」と布告した。新しい大聖堂は直ちに建設され、それは1131年に主教ベルナルドにより奉献された。
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大聖堂(チャペル)
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「トリニティ・カレッジ (オックスフォード大学)」の記事における「大聖堂(チャペル)」の解説
大聖堂(チャペル)はヘンリー・オルドリッチ(英語版)がクリストファー・レンの助言を得ながら設計したもので、1694年に聖別された。トリニティ・カレッジ大聖堂聖歌隊(英: The Trinity College Chapel Choir)は、8人までの聖歌隊スカラーと、30人以上のボランティア唱歌隊で構成されている。この聖歌隊は大学随一の人数を誇り、メンバーの大半はカレッジの関係者である。聖歌隊は、毎週日曜日の夕べの祈り(英語版)で歌うほか、2、3週に1回歌唱し、カレッジの行事にもなっている。音楽監督はカレッジにおらず、オルガン・スカラー(英語版)が演奏に責任を持ち、またチャプレンがこれを監督する。 聖歌隊は毎年ツアーを行っており、2008年にはダブリンでコンサートと聖パトリック大聖堂での聖餐式(英: Sung Eucharist)で歌ったほか、2009年夏にはローマ、2010年にはパリ、2011年にはバルセロナ、2012年にはウィーンを訪れている。2009年には "A Voice from Afar"と銘打ったCDをリリースし、当時のオルガン・スカラーだったキャサリン・ウォレス(英: Catherine Wallace)が監督を務めた。
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大聖堂
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ノワイヨンには大聖堂があり、1150年に着工された。1144年のサン・ドニの献堂式以降の最初に着工された初期ゴシックの大聖堂である。しかしリブを支えるのはサン・ドニのアン・デリの添柱ではなく、控え壁と一体化された石積みの付柱で、違う柱である。一方、周歩廊の外縁に並んでいる部屋はサン・ドニに用いられた添柱がみられる。この大聖堂は内陣から建設がはじめられ、続いて西へと建設が進められていった。奥行きの深い2階廊を取り入れていること、袖廊の両腕の先端が丸くなっている、3層からなる立面などの特徴があげられる。尖頭アーチの垂直と多層で構成される水平の間の、初期ゴシック的バランスを表現している。また、付加的な第4番目の層のトリフォリウムという低い壁の間の通り路の導入により、生き生きとした様を呈することになった。後の1236年に着工のヘッセン州のラーン川の沿岸のマールブルクにあるザンクト・エリザベート教会堂には、ノワイヨンによって鼓舞されたゴシック表現がなされている。
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大聖堂
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シエナ大聖堂は、内外ともに大理石象嵌張りで飾られ、平らに切られた東端部、六角形の交差部とドーム、堂内に組み込まれた鐘塔を特色とする。建築としては一貫性に欠ける教会堂なのだが、内部の横縞模様はとても印象的で、特に多色大理石とモザイクで装飾されたファサード(西正面)はイタリア最美といわれる。
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大聖堂
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中世以来、ダブリン大司教座はクライストチャーチ大聖堂にある。しかし、多くの時代においてその地位はもうひとつの大聖堂である聖パトリック大聖堂と分有した状態にあった。過去にはかなりの対立があったものの、ダブリン大司教フェリングスの時代に6つの協定 (Pacis Compositio) が結ばれ、法的には1870年代まで有効であったこの協定に従って地位を分有していた。 主教座があるクライストチャーチは、16世紀に身廊が滑って一部が倒壊して以来、19世紀までダブリン大主教の大聖堂は双方とも悲惨な状態で放置され、本格的な修理も行われていなかったが、19世紀末に大規模改修を行い現在の姿にいたる。また、同時期に聖パトリック大聖堂も復元が行われた。
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大聖堂
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「クライストチャーチ大聖堂 (クライストチャーチ)」の記事における「大聖堂」の解説
英国国教会の流れを汲む大聖堂として、年間70万人を超える来場者が訪れるニュージーランドを象徴する観光名所である。 大聖堂内部は多くのステンドグラス、彫刻品など装飾品で飾られている。多言語による礼拝、大小さまざまな礼拝が執り行われる。 宗教儀礼のほか、各種催し会場としても利用される。クライストチャーチ交響楽団主催によるクライストチャーチ大聖堂シリーズ時にはコンサートホールとして使用される。 有料券を購入することで大聖堂の一部塔(階)に登ることもできる。大聖堂内部を見学してまわる無料のガイドツアーも開催されている。 2011年の地震により北側尖塔部分が崩壊、その後の6月13日に起きた余震により正面のステンドグラスの窓や西側の壁が75%まで崩壊するなどの被害を受けた。 2012年2月、修復には5,000万NZドル~1億NZドル(約34~68億円)の費用が必要で、内部はまだ危険な状態で今後も地震が起きる恐れがあり、修復再建は断念し、解体が決まったことが発表された。 2013年8月に大聖堂跡の近くに紙管を使った聖堂がオープンした。設計は日本人建築家の坂茂で、少なくとも10年間は紙の聖堂が使用される計画である。
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大聖堂(Cathedral, ID 367-008)
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「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂、聖母聖堂」の記事における「大聖堂(Cathedral, ID 367-008)」の解説
トリーアの大聖堂は、ドイツ最古の大聖堂にしてこの都市の司教座聖堂である。全体の登録名にもあるように、聖ペテロ大聖堂とも呼ばれる。建築様式は時代ごとの付け足しの結果、様々な様式が混ざり合っている。
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大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 01:15 UTC 版)
アナーニの大聖堂は、聖母マリアに捧げられたロマネスク様式の教会堂である。1071年から1105年にかけて建設され、13世紀半ばにゴシック様式が付け加えられた。大聖堂で特筆すべき部分はその地下で、この町の守護聖人であるアナーニの聖マグヌス (Magnus of Anagni) や、聖セクンディナの墓がある。自然哲学や黙示録、旧約聖書にある契約の箱などを表現したフレスコ画がすべての壁や部屋を覆っており、イタリアにおけるロマネスク・ビザンチン芸術の傑作とされている。 大聖堂 大聖堂内部 大聖堂内部 契約の箱を描く壁画
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大聖堂(ドゥオモ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 07:06 UTC 版)
「ピサのドゥオモ広場」の記事における「大聖堂(ドゥオモ)」の解説
詳細は「ピサ大聖堂」を参照 大聖堂(ドゥオモ)は、緑の芝生が生える広場の中央にそびえる。都市国家であったピサが、1063年にパレルモ沖でサラセン艦隊を破ったことを記念して建築を始めたといわれる。 建物の構造は、奥行きが約100m、幅約30mで、上から眺めるとラテン十字の形をしている。内部は、円柱が密に並び、五廊式となっている。使用された円柱の多くは戦利品として、パレルモのモスクから運ばれたものともいわれ、内装はビザンティン様式の影響も見える。建造物自体はロマネスク建築と考えられている。 建物内部にはピサの人々に愛された、聖ラニエリ (Rainerius) とハインリッヒ7世の墓がある。 ガリレオのランプは、身廊のほぼ中央に吊り下がっているブロンズ製のランプで、ガリレオがこのランプの揺れをみて振り子の等時性を発見したと伝わっているが、これも事実ではないと考えられている。 説教壇は、14世紀の始め頃に作られた、イタリア・ゴシック様式を代表する彫刻として知られている。 ガリレオのランプ 説教壇
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大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/11 09:37 UTC 版)
「パルマ大聖堂 (イタリア)」の記事における「大聖堂」の解説
外観は基本的にロマネスク様式のまま保たれているため、後世の派手さと無縁な落ち着いた雰囲気であるが、一旦内部に入ると一面がルネサンス期のフレスコ画で覆われており、この対比について言及されることもある。以下にその外観と内部を解説する。
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大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:05 UTC 版)
詳細は「ソールズベリー大聖堂」を参照 最初の大聖堂は1075年から1092年にかけ、司教オズモンドの代にオールド・セーレムに建てられた。1120年、同じ場所にさらに大きな建物が建てられた。しかし、同じ場所に大聖堂をつくる決定をオールド・セーレムへ渡したことから、聖職者と軍の関係が悪化した。そのため、1220年に出来た市の部分はソールズベリーではニュー・セーレムで知られ、司教リチャード・プーアによる新大聖堂建設は同じ年に始まった。主たる骨格はわずか38年で完成、これは初期イングランド建築の傑作とされる[誰によって?]。オールド・セーレムから大聖堂は一部を石で、また一部は小さな船でナッダー川で運ばれてきたシルマーク・カリーズ(後のウィルトシャー)の石で作られた。全長123メートルの尖塔は後で建てられ、これはイギリスで最長の尖塔である。『蠅の王』などで1983年にノーベル文学賞を受賞したウィリアム・ゴールディングは大聖堂のすぐそばの学校で20年近く教師をしていて、この尖塔の建築に関わった神父たちをモデルにした小説『尖塔 ザ・スパイア』を書いている。 大聖堂は、木を束にしたものの上の18インチの一風変わった浅い基礎を伴う砂利敷き上に建てられた。この場所はオールド・セーレムから放った矢によって選ばれたと仮定されている。これは以前の場所から3キロ以上離れていることから伝説とみなされている。また別の話では、矢は白いシカを射て、シカは走り続けたが大聖堂が今ある場所で絶命したという。 大聖堂の図書館にはマグナ・カルタの現存する4つの写本のうち、最良の状態のものが保管されている。 1386年、大きな機械時計が大聖堂に設置された。これは現存し、ブリテン諸島では最も古い機械時計となっている。
※この「大聖堂」の解説は、「ソールズベリー」の解説の一部です。
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大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 02:27 UTC 版)
クレムリン大宮殿の東側には、ロシア正教会の伽藍が林立する広場があり、大聖堂広場(寺院広場、ソーボルナヤ・プロシチャージ)の名で呼ばれる。 聖天使首大聖堂(アルハンゲリスキー大聖堂) 1505年から1509年にかけて建立。設計はイタリア・ミラノ出身の建築家アルヴィン・ヌオヴォ。5個の丸屋根を持ち、内陣にはタタールのくびきからロシアが解放された絵やイコンによって飾られる。イワン雷帝他歴代皇帝の納骨保管所となっている。 生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂) 1475年から1479年にかけて建立。設計はイタリアの建築家アリストートル・フィオラヴァンティによる。大聖堂広場の北側・グラノヴィータヤ宮の北隣に位置する。5つのドームを持つ。全高38メートル。内陣はフレスコやイコンによって飾られる。帝政時代には皇帝の戴冠式が挙行された。現在でもロシア連邦大統領就任式でロシア正教会による祝福が行われる場所である。 生神女福音大聖堂(ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂) クレムリン大宮殿の東に隣接する瀟洒な聖堂。1484年から1489年にかけて、ロシア・プスコフの建築家たちによって建立される。現在丸屋根は9個だが、建立当初は1個だった(直ぐに3個に増やされた)。皇帝、皇后の私的な参拝、礼拝所として使用された。 この他、大聖堂広場やクレムリン大宮殿には、総主教宮殿、ヴェルホスパスキー聖堂(祭服教会)、テレムノイ宮殿付属教会、リゾポロジェーニエ教会、十二使徒教会、ラザーリ教会がある。 大聖堂広場の中心には、高さ81メートルのイワン大帝の鐘楼が屹立している。1505年から1508年にイタリア人建築家ポノフリアツィンによって建設され、1532年鐘楼が増築される。21個の鐘があり、その一つウスペンスキーの鐘は、総重量70トン。イワン雷帝の鐘楼の前には、全高6.1メートル、直径6.6メートル、重量200トンの鐘の皇帝(鐘の王様、ツァーリ・コロコル)が置かれている。さらに鐘楼の裏手、イワノフスカヤ広場に面して、大砲の皇帝(大砲の王様、ツァーリ・プーシュカ)が置いてある。この中世における世界最大のカノン砲は、1586年ロシアの兵器工アンドレイ・チョーホフによって鋳造された大砲である。砲身は全長5.3メートル、厚さ15センチ、口径89センチ、重量40トンの怪物級である。但し、この大砲は一度も発射されたことは無い。
※この「大聖堂」の解説は、「クレムリン」の解説の一部です。
「大聖堂」を含む「クレムリン」の記事については、「クレムリン」の概要を参照ください。
大聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 21:25 UTC 版)
ルッカ大聖堂(正式名称サン・マルティーノ大聖堂(cattedrale di San Martino))は、南城壁の近くに立地しており、その起源は6世紀で、現在の聖堂は1070年、アレクサンデル2世の献堂による。ファサードは13世紀初頭のもので、後述のサン・ミケーレ・イン・フォロ教会のそれと同じ人物グイデット・ダ・コモによる製作でルッカ様式を見せる。 この聖堂は聖マルティーノの名を冠すだけに、ファサードには聖マルティーノの彫像が、またポーチの奥にはその生涯の場面を描いた彫刻がある。 内部には様々な名物があり、ティントレットの板絵『最後の晩餐』、ヤコポ・デッラ・クエルチャによる、石棺の上に配置された『イラリア・デル・カッレットの彫像』、ドメニコ・ギルランダイオによる『聖母子と聖人たち』などがあるが、1070年の献堂当時に大聖堂に収められ、中世には多くの巡礼を集めた『ヴォルト・サント(イタリア語版)(聖顔)』は外せない。これは身廊に建っている、マッテオ・チヴィターリ作の礼拝堂のさらに中に安置された木彫りのキリストの磔刑像で、イエスの遺体を引き取って埋葬したニコデモの作といういわくつきの聖遺物である(画像は「外部リンク」節の"Una scheda sul Volto Santo"を参照)。
※この「大聖堂」の解説は、「ルッカ」の解説の一部です。
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大聖堂(Munsterkerk)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 21:36 UTC 版)
「ルールモント」の記事における「大聖堂(Munsterkerk)」の解説
※この「大聖堂(Munsterkerk)」の解説は、「ルールモント」の解説の一部です。
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「大聖堂」の例文・使い方・用例・文例
- カンタベリー大聖堂
- 彼は団体旅行の一行を大聖堂の前へと先導した
- 荘厳な大聖堂
- 大聖堂の鐘の音が市中に響き渡った
- 大聖堂の尖塔は家々の屋根より高くそびえていた
- 大理石の円柱が大聖堂を支えている
- ミラノ大聖堂は世界で最も大きい教会の一つである。
- 私の知る限り、この大聖堂の建立は中世にまでさかのぼる。
- その大聖堂の建立は中世にもさかのぼる。
- その大聖堂の建立は中世にまでさかのぼる。
- この壮大な大聖堂の建立は中世にまでさかのぼる。
- 大聖堂のある都市.
- 大聖堂は維持するのに金がかかる.
- ゴシック様式の大聖堂.
- ヨーク大聖堂.
- 大聖堂代用の教会.
- シャルトル大聖堂の見学もスケジュールの中に繰り込んでおいて下さい.
- この大聖堂の前では人間はひどく小さく見える.
- この大聖堂を建設するのには何年もかかった.
- ノートルダム大聖堂の由来は 12 世紀まで遡る.
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