むらかみ‐はるき【村上春樹】
村上春樹
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村上 春樹(むらかみ はるき、1949年(昭和24年)1月12日 - )は、日本の小説家・翻訳家。
- ^ 『村上さんのところ』p.5で毎年「騒がれることについていかがお考えなのでしょうか」という質問に対して「わりに迷惑」と書き、p.77で「候補になっていること」が迷惑なのではなくメディアに大騒ぎされることや「候補になっているというのは、あくまで憶測に過ぎません」「迷惑しているというよりは、当惑しているという方が近いかも」と書き、p.63で丸谷才一が亡くなる間際に村上春樹のノーベル賞受賞の祝辞の原稿を書いていたという話を紹介している。
- ^ 第一次世界大戦後から第二次世界大戦後にかけてのドイツの歴史に興味があるという読者からのメールに対し、村上は次のように答えている。「僕は中学校二年生のときにウィリアム・シャイラーの『第三帝国の興亡』(名著です)を読破し、しばらくナチの歴史にのめり込んでいました。あの時代の歴史は本当に面白いです。面白いといってはなんだけど、濃密というか、普通じゃないというか、学ぶべきことが山ほどあります」[13]
- ^ 村上は早稲田大学に入学した理由ときっかけを次のように述べている。「映画演劇科があったというのがいちばん大きな理由です。関西の大学にも受かっていたので、そちらに行くこともできたし、そうすればもっと穏やかでのんびりとした学生生活を送っていたと思うんですが、なぜか急に東京に行きたくなって、早稲田進学を選びました(入学金を振り込む期限の前日に決心しました)」[14]
- ^ 村上の弁によれば、当時演奏を行ったミュージシャンは次の通り。向井滋春、高瀬アキ、杉本喜代志、大友義雄、植松孝夫、古澤良治郎、渡辺文男など[21]。
- ^ 村上は印南高一について次のように述べている。「大学に入って教授と直接話したことは一度しかない。卒論を提出した時である。時代が時代とはいえひどいものだ。その先生に『君は文章を書く職業についたらどうだい』と言われた。まさかと思ったからその時は笑ってごまかしたのだが、二十九になった時にふとそれを思い出して文章を書いてみる気になった。書いてみたら、なんとか書けた」[22]
- ^ この講義はのちに『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋、1997年10月)としてまとめられた。
- ^ 毎日新聞は2009年3月2日に全文の翻訳を配信した[41]。
- ^ 思想家の内田樹も翻訳した人物のひとり。授賞式直後の2009年2月18日と2月20日に、自身のブログに訳文を掲載した[42][43]。
- ^ ホームページ「村上さんのところ」の告知がなされたのは、開設より9日前の2015年1月6日。このニュースは海外の大手メディアでもすぐに取り上げられ、同日の『ガーディアン』紙は「Haruki Murakami to be an online agony uncle」という見出しを記事に掲げた[49]。
- ^ 隠喩の実例。「そのようにして僕は最も礼儀正しい酔払いになる。いちばん早起きをするむくどりになり、いちばん最後に鉄橋を渡る有蓋貨車になる。」[59]、「私は荒廃した部屋の中の、小さな胎児だった。然るべき時が来るまでは、誰も私の眠りをさまだけることはできない。私はトラブルの衣にくるまれた絶望の王子なのだ。」[60]
- ^ レイモンド・チャンドラーについて村上は次のように語っている。「僕がチャンドラーの小説を読んで十代の頃にいちばん感心したのは、その小説が訴えかけてくるリアリティーだったんです。でも正直な話、彼の小説に出てくるフィリップ・マーロウという人物の生き方にも考え方にもその実生活にも殆んどリアリティーなんてないですよね。あれはどう見てもまったくのお伽噺ですものね。しかしそれにもかかわらず、僕はチャンドラーの小説から圧倒的といってもいいくらいの生々しいリアリティーを感じたんです」[69]
- ^ 村上は次のように述べている。「言語とは、誰が読んでも論理的でコミュニケート可能な『客観的言語』と、言語で説明のつかない『私的言語』とによって成立していると、ウィトゲンシュタインが定義している。私的言語の領域に両足をつけ、そこからメッセージを取り出し、物語にしていくのが小説家だと考えてきた。でもある時、私的言語を客観的言語とうまく交流させることで、小説の言葉はより強い力を持ち、物語は立体的になると気がついた。プロ野球のセ・パ交流戦のように(笑)」[71]
- ^ 村上の作品に「柄谷行人」というショートショートがある。『夜のくもざる―村上朝日堂超短篇小説』に収録される予定であったが、担当編集者の反対にあい未収録となった。同作品は現在、『村上春樹 雑文集』(新潮社、2011年1月)で読むことができる。
- ^ スピーチ原稿の英文は次のとおり。"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."[114]
- ^ インタビュアーは柳橋閑。村上は言う。「僕は、走ることが創作のために大事な役を果たしているという肉体的な実感をずっと持ってきたんです。でも、走ることで脳の創作的な能力がインプルーブされると、僕がいくら言っても、まわりの誰も耳を傾けてくれなかった。30年近く走ってきて、それは絶対にあると思っていたんだけど、この間『脳を鍛えるには運動しかない!』という本を読んでいたら、本当にそれはあるんだという研究結果が紹介されていたんです」「僕が一貫して言ってきたのは、創作作業には持続力と集中力が不可欠だということなんです。それはクルマの両輪のようなもので、片方が欠けたらもう進めない」[125]
- ^ ただし前掲雑誌『週刊朝日』インタビューでは、卒論を読んだ指導教授の「君は小説が書けるんじゃないかね」という言葉が念頭にあったと述べている。
- ^ エルヴィス・プレスリーについては、とりわけ1960年代前半に公開された主演映画の挿入歌に思い入れが強いことがその著作からうかがえる。「心の届かぬラヴ・レター」(『風の歌を聴け』講談社文庫、92頁)、「ロカ・フラ・ベイビー」(『ダンス・ダンス・ダンス』上巻、講談社文庫、137頁)、「ブルー・ハワイ」(『ダンス・ダンス・ダンス』下巻、講談社文庫、99頁)「ボサ・ノヴァ・ベイビー」(『辺境・近境』新潮文庫、76頁)、「ラスベガス万才」(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文藝春秋、170-172頁)などがその例。
- ^ ドアーズのボーカルのジム・モリソンを「かつての我がアイドル」とエッセイに書いており(「青春と呼ばれる心的状況のおわりについて」『村上朝日堂はいほー!』所収)、また「ジム・モリソンのための「ソウル・キッチン」」というモリソンについてのエッセイも書いている(『村上朝日堂はいほー!』所収)。
- ^ 「僕は『チョコレートと塩せんべい』と言ってるんだけど、チョコレートを食べて塩辛いものを食べたいなと思うと塩せんべいを食べて、甘いものがいいな思うとまたチョコレート食べて――永遠に続くんですよね。」[131]
- ^ ジョン・カサヴェテス監督の映画『グロリア』(1980年)で、逃亡するグロリアと少年の間で次のような会話が交わされる場面がある。"You can't beat the system." "Then how do you know you can't beat it?" "Not too many people have." (「組織には誰も勝てない」「どうして勝てないってわかるの?」「勝った人間はほとんどいないから」) なお村上は『グロリア』の映画評を2度書いている[136][137]。
- ^ 職場がニュース番組の取材を受け「テレビにすっかり幻滅した」と語る読者のメールに対し、村上はこう返信している。「僕はテレビ関係者と関わったことがほとんどないので、それが普通なのかどうかよくわかりません。でも僕が(心ならずも)関わった限りでは、そこに愉快なことはなにひとつありませんでした。これからもできれば関わりたくないなと思っています」[143]
- ^ 安西水丸はこう述べる。「『ねじまき鳥クロニクル』の登場人物ではワタヤノボルなんです。『ワタナベノボルでやりたかったけど、水丸さん、あれすごい悪い奴だからワタヤにしましたよ』って。変えてくれたんです(笑)。やっぱり村上さん、いい人ですよ」[150]
- ^ 近年はバーンバウム、ルービン、ガブリエルの3人のほかに、ヨーク大学教授のテッド・グーセンが加わった。
- ^ 活字化されたか否かは不明だが、河合と村上の公開対談が1998年末に広島市で開かれた心理療法士の全国会議で行われている[162]。
- ^ 上京の様子は安西水丸との共著『象工場のハッピーエンド』の「ジョン・アップダイクを読むための最良の場所」に書かれている。寮は『ノルウェイの森』に「ある学生寮」として克明に描かれている。
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