よしもと‐たかあき【吉本隆明】
読み方:よしもとたかあき
[1924〜2012]詩人・文芸評論家・思想家。東京の生まれ。次女は小説家の吉本ばなな。文学・大衆文化・政治・宗教など、広範な領域で評論・思想活動を行う。著書に「高村光太郎」「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「言葉からの触手」など。
よしもと‐りゅうめい【吉本隆明】
読み方:よしもとりゅうめい
⇒よしもとたかあき(吉本隆明)
吉本隆明
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吉本 隆明(よしもと たかあき、1924年〈大正13年〉11月25日 - 2012年〈平成24年〉3月16日)は、日本の詩人[1]、評論家。「隆明」を音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い。漫画家のハルノ宵子は長女。作家の吉本ばななは次女。
注釈
- ^ 入籍自体は1957年5月に行われた。
- ^ この「戦中派」としての戦争体験に吉本思想の核心を見るものに、小熊英二の『<民主>と<愛国>』(2002.新曜社)がある。
- ^ 富山県にある日本カーバイド工業の工場に動員され、終戦直後、荷物をたくさん背負った復員兵に出会ったことが大きな衝撃を受けたと「思想的不毛の子」で書いている。
- ^ 小野十三郎、安西冬衛、竹中郁らによる大阪の詩誌。
- ^ 応募詩3篇の「審判」「絶望から苛酷へ」「火の秋の物語」が、年鑑詩集である『荒地詩集1954』に掲載され、同賞を受賞。他の受賞者は中江俊夫、鈴木喜緑。また「荒地」は鮎川信夫、田村隆一が主宰した。
- ^ 奥野健男、日野啓三、服部達、清岡卓行らと創刊し、吉本は同人となる。
- ^ 武井昭夫は、新日本文学会員かつ当時日本共産党員(後1960年除名)であった。
- ^ 武井昭夫からの1998年時点での当時の回想として、柄谷行人・絓秀実によるインタビュー「50年代の運動空間」がある(「批評空間」II期20号、のちに武井によるコメントを付して、武井昭夫対話集『私の戦後ー運動から未来を見る』収録)。
- ^ その背景には、1950年以来の、米ソ冷戦の激化、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発、その中での、1950年コミンフォルム=スターリンからの日本共産党批判そして、共産党分裂と混乱、徳田球一ら主流派の武装闘争路線とその破綻、1955年の六全協における統一と、宮本顕治体制の確立という激動のなかでの発言である。同年1956年にはフルシチョフによる、既成のマルクス主義の権威を失墜せしめる契機となったスターリン批判およびハンガリー動乱も起きている。
- ^ 『印刷インキの歩み 東洋インキ六十年史』によれば1953年4月、労働組合連合会組合長に就任、吉本委員長体制による労働運動が開始された。
- ^ 「現代批評の会」は井上光晴、奥野健男、清岡卓行、武井昭夫、吉本隆明の5人で結成し、のち島尾敏雄、瀬木慎一、佐古純一郎、橋川文三が加わった。
- ^ 全学連主流派を掌握していたのが安保ブント=共産主義者同盟・世界初の共産党からの独立左翼と言われる。『中央公論』1960年4月号に島成郎(後に精神科医として主に沖縄で地域医療に貢献)、葉山岳夫(後の弁護士)というブント幹部との座談会を行っている。「トロツキストと云われても」 吉本は、同伴知識人第二号と言われた。ちなみに第一号は社会学者の清水幾太郎。
- ^ この時の様子を吉本は、「警官隊の棍棒に追われ、追付かれたものは力いっぱい殴打されている、塀をのりこえるほかに生命を全うして逃げる道がなかった」と述べている。不作為にのりこえた塀の中は警視庁内であり、30数人の学生と共にそこで逮捕された[7]。
- ^ 全学連主流派を牽引した60年安保ブント(安保終結後解体)に関しては当時、一員であった西部邁の『60年安保センチメンタルジャーニー』(1986年。再発2007洋泉社)が当時の雰囲気を伝えている。島成郎についても、一章を割いて論じている。
- ^ 61年6月には、「退廃の誘い」と言う論考において、「自立組織が各種各様にある求心的な運動をつづけ、脈絡をつけては、核のほうこうへ繰り込み、また脈絡をルーズにして各種各様の自立的な運動を続けながら徐々に結晶していく」という組織論=運動論が述べられている。
- ^ 島とは、吉本が、ブント=全学連に同伴して60年安保を通過したということを超えて密接であり続けた。60年9月、安保ブントが解体状況を露呈し、島がブント内で孤立して沈黙を守っているときの島の「ノート」(日記)(『ブント書記長島成郎を読む』所収)には吉本宅を訪ねた後の感想として「彼の考えは俺とすこぶる共通している」とある。また60年から61年にかけての島の「ノート」によれば、「いかにして革命的復活をなしとげるか」として、その成果の一番目に「吉本隆明らの雑誌の発行の目安が付いた」(61年6月25日付け)ことが挙げられている。また2000年10月島成郎の死の際には、吉本は「『将たる器』の人」」(「沖縄タイムス」2000年10月22日朝刊、のちに『ブント書記長島成朗を読む』等に転載。)という心情あふれる追悼文を書いている。吉本はそこで、「知っている範囲で、谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは『将たる器』をもった優れたオルガナイザーだと思ってきた」と述べている。
- ^ 資金は、当時の金で11万円ほどだった。
- ^ 武井昭夫の回想によれば、当初、吉本から「『試行』発行を吉本・谷川雁・武井昭夫の3人でやらないか」という相談があったという。武井によれば断った理由は「吉本-花田論争の成り行きをみてきて、吉本さんへの友情はそれとして、かれの考えとはやがて衝突は避けられないだろうという思いから、辞退した」という[8]。
- ^ 吉本が刺激を受け解説を書いた『日本語はどういう言語か』(講談社、1976年)の著者である三浦つとむは、1977年に病気になるまでの10年間、『試行』に毎号欠かさずに論文を発表した。 『三浦つとむ選集』1巻(勁草書房、1983年)、13頁。
- ^ この表題は、大江健三郎『われらの時代』からとられている。
- ^ 収められた論考は「転向論」「丸山真男論」。
- ^ 著名なものに、1987年に出版された田川建三『思想の危険について-吉本隆明がたどった軌跡』(インパクト出版)がある。
- ^ 吉本は、この講演で、「言語の『幹や根』は『沈黙』(自己表出)であり、コミュニケーション(指示表出)の部分は『枝葉』である」と述べた。なお、この模様は、「ETV特集」にて2008年1月4日にダイジェストが放映された[12]。
- ^ 小沢一郎は当時自民党を飛び出、新生党を結成し、自民党を政権から降ろし、社会党を含む8党派連立の細川護煕内閣を短期間成立させていた。そのとき小沢が出版した『日本改造計画』を吉本は評価している。『わが転向』P21p24p2529p60参照。
- ^ 大塚は、「これはサブカルチャーの保守化とか右傾化ではなく、ナショナリズムの質的変化ではないでしょうか。すでにそれをナショナリズムと呼んでいいかどうかわからないという状況の中に、今君が代、国家の問題がある」とし、吉本はそれに応答している[23]。
- ^ 鶴見俊輔を最も高く評価し、吉本隆明にその視点からかなりの疑問を呈している。
- ^ 2007年の渋谷陽一とのインタビューでは、「僕があまり口に出せないような反省があるとすればそこ」とも述べている[42]。
- ^ 例えば吉本は、湾岸戦争が起こった時に、保守派や進歩派などの、様々な「知的な」グループから出された、反戦や和平や停戦や多国籍軍への感謝などの「声明」に対して、「名辞の実体をつかまえようとして、つぎつぎ表皮をむいてゆくと何もなくなってしまうことになっている。」と、じぶん以外の責任において「理念が死んでしまう」として、「知的な」グループが集まって「象徴的な名辞」を表明することを、否定的にとらえていた[45]。
- ^ 当時文系であれば、学徒出陣により、東大法学部助手の丸山真男さえ、徴集され、丸山は二等兵として戦争に参加した。
- ^ 「たえず特権的な感じから追跡されていた」という。また、吉本によれば、米沢高等工業学校の在学時、「武断派」の学生たちから大学に進学すべきか否かで議論が起き、「武断派」の学生たちは「今は国家危急の時だ」と軍隊への入営を、成績上位者で大学受験を許されていた吉本らの学生たち(化学科60人の内、一割の6名)に迫った。しかし、吉本の「大学にいって専門分野をもっと勉強して、より高い技術を身に付け、お国のために役立てようとすることが、どうして悪いことなんだ」と反論しそれが通り、迷いもあったが戦闘経験のある父のリアルな戦場の話も聞き、東京工業大学に進学したという[58][59][60]。
- ^ 原文は以下の通り。「おれの乏しい知見の範囲でいえば、この本を読まずに現在の世界の思想を語るのは、どんな立場にしろ、読まないほうがモグリだといえるのは、現存している思想では、M・フーコーの「言葉と物」だけだと思う。」[85]
- ^ フェリックス・ガタリが「日本には政治的、文化的には古い伝統も残している」日本には天皇がまだ象徴として存在している。それは「非常に珍しいこと」で「いいことだ」といったことをさすと思われる。2002年になって『超・戦争論』でも再び語られている[87]。
- ^ 他に小田切秀雄、西田勝、小田実が発起人。
出典
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- ^ この論争に関しては、好村 冨士彦『真昼の決闘―花田清輝・吉本隆明論争』晶文社 (1986)が詳しい。当時の雰囲気を伝えている。またこの磯田光一は「吉本隆明年譜」(『埴谷雄高・吉本隆明の世界』朝日 出版社:1996年所収)』よりの重引(用)。またこれら年譜的事実自体も川上氏作成年譜などを参考にした。
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