てん‐こう〔‐カウ〕【転向】
転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 16:19 UTC 版)
転向(てんこう)とは、今までの方向、方針、進路、職業、好みなどから変えること。また思想や政治的な主張や立場の変更、特に弾圧により共産主義や社会主義の立場を放棄すること。ここでは主に後者について述べる。
- ^ 平島盛龍「日蓮聖人の真言批判について 末法下種思想形成の一側面」
- ^ 佐野・鍋山が転向理由を弁護団に説明『東京朝日新聞』昭和8年6月11日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p548 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『思想検事』(荻野富士夫)P31 - P32、 P43
- ^ 三田村、高橋、中尾も転向声明『中外商業新報』昭和8年7月7日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p549)
- ^ 転向相次ぎ、被告の三割越す『中外商業新報』昭和8年9月5日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p550)
- ^ 桑尾光太郎『左翼学生の転向と復学--東京帝国大学における事例』東京大学史紀要 (24), 1-20, 2006-03
- ^ 桑尾光太郎『転向学生の復学とその後--東北帝国大学・京都帝国大学における事例』東京大学史紀要 (27), 1-16, 2009-03
- ^ 思想犯保護観察所を設け乗り出した司法省、東京日日新聞、1935年10月2日(神戸大学電子図書館システム)
- ^ 左翼転向者の身の振方に内務省一肌脱ぐ 全国警察署に職業紹介係設置、大阪毎日新聞、1935年4月23日(神戸大学電子図書館システム)
- ^ 「文化評論」1976年臨時増刊号
- ^ 「「國体の本義」はなぜ手ごわいのか(中)」/稲浜 昇 | 論壇/
- ^ 予防拘禁で非転向左翼を再収用『朝日新聞』昭和16年5月16日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p466)
- ^ 1922年3月24日付ミュンヒナー・ポスト
- ^ オットー・シュトラッサー著『Flight from Terror』[1]
- ^ Ian Kershaw: Hitler. 1889–1936. Stuttgart 1998, S. 164; David Clay Large: Hitlers München – Aufstieg und Fall der Hauptstadt der Bewegung, München 2001, S. 159.
- ^ Josef Schüßlburner, Sozialdemokratie und Nationalsozialismus: Heil Dir, Lassalle!, 2013
- ^ 岡崎久彦『重光・東郷とその時代』PHP研究所、2001年、66頁。ISBN 978-4569616643。
- ^ 岡崎『重光・東郷とその時代』、67頁。
- ^ 岡崎『重光・東郷とその時代』、68頁。
- ^ 読書人WEB
- ^ 村田晃嗣「レーガン」中公新書、P108
- ^ “Putin: I Still Like Communist Ideas ‘Very Much’”. CNS. (2016年1月25日) 2019年3月14日閲覧。
- ^ 議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」〈4〉 1990代~革命(2/7) | JBpress (ジェイビープレス)
- ^ 【悲報】実家に帰省したら親がネトウヨになってた…元凶の「ビジネス右翼」を生む歴史と構造。そして治療法はあるのか|古谷経衡(文筆家)|FINDERS
- ^ 閉ざす小集団と、開く心 – ページ 2 – 集英社新書プラス
- ^ 外山恒一「学生運動入門 2.歴史篇」
転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/05 15:32 UTC 版)
「コリエーレ・デラ・セラ」の記事における「転向」の解説
1977年には、当時の与党であるキリスト教民主党との対立により、銀行からの融資を止められ資金難に陥っていた親会社のリッゾーリ社(当時)に対し、左派で知られたピエーロ・オットーネ編集長を解雇することを条件に、極右政党であるイタリア社会運動(MSI)の幹部で、元フリーメイソンの反共組織である「ロッジP2」のリーチオ・ジェッリ代表が融資を持ちかけた。 その後ジェッリ代表は関係の深かったバチカン銀行のポール・マルチンクス総裁が調達した資金をリッゾーリ社に提供し、その後オットーネ編集長は解雇された。以降同紙は現在に至るまで保守主義的な論調を取ることとなった。
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転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 04:43 UTC 版)
1932年5月にはコミンテルンが32年テーゼを出し、「赤旗」1932年7月10日特別号に発表される。ヨシフ・スターリンは日本の極左冒険主義を批判、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。 1933年6月、党委員長の佐野学と鍋山貞親が獄中で転向声明を出した。これは、ソ連の指導を受けて共産主義運動をおこなうのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動をおこなうという内容であった。田中は「生涯で一番ぐらつき」、煩悶する。同年、共産党活動家の小宮山ひでと獄中結婚。ひではその後石橋湛山の東洋経済新報社記者として上海に赴任。尾崎秀実やアグネス・スメドレーと親交した。 1934年獄中で天皇主義者に転向。田中は後年つぎのように回想している。「幕末に朱子学と水戸学派によって著しくねじ曲げられた天皇だけが神であるというような狭隘な神道もまた、満足できるものでなかったことは言うまでもありません。毛沢東を絶対視した中国の文化大革命などは、私にとってはまったく気違いのたわごとにすぎませんでした。八百万の神といいますね、この世に存在するあらゆるものが神だという信仰ですが、この信仰が自分の血肉の中にまで入りこんでいて、引きはがすことができないと。そうしてその祭主が皇室であり、わが民族の社会形成と国家形成の根底をなしているということに、私は獄中において思い至ったのです。考えて考えて、考え抜いたあげくの結論でした」「私の転向は母の死によってもたらされた心中の疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義、共産主義という抽象的観念を追い出した」。また、佐野たちを転向させた平田勲ら思想検事の「治安維持法違反の犯人、つまり日本共産党員から一人の死刑をも出さない」という姿勢にも感銘を受けていたという。
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転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:02 UTC 版)
1932年(昭和7年)10月30日、静岡県熱海町で日本共産党幹部が一斉検挙された熱海事件が起こる。弾圧の嵐が吹き荒れる中、同年暮れに榊原は神谷光次、本多光太郎の甥の本多兵三郎らと日本共産党西三河地区委員会を結成した。シンパは数十人に及び、その中にはのちにCBCの重役となる安藤春夫もいた。地方としては画期的とも言える早い時期に生まれた「岡崎共産党」であったが、翌1933年(昭和8年)1月に大規模な検挙があり四分五裂。西尾市内のアジトにいた神谷は間一髪、警察の手を逃れ、冬の矢作川を徒歩で渡り安城のカフェで榊原と連絡。榊原も名古屋市内のアジトを転々として逃げ回ったが、3月には二人とも逮捕され、党細胞は事実上壊滅した。 獄中に転向。1933年(昭和8年)6月10日に佐野学と鍋山貞親が発表した転向声名に「刺戟され」たことを理由の一つに挙げている。 1935年(昭和10年)10月に刑期を終えるまで在獄期間は延べ4年余に及んだ。釈放後ただちに『岡崎朝報』に復帰。編集長の永野緑亭が病床に臥し、1年足らずで他界。同紙の主たる筆致は榊原が担うこととなり編集局長に就任。 1936年(昭和11年)3月11日、従業員3,400余名を有する日本レイヨン岡崎工場(現・ユニチカ岡崎工場)において、労働者は15項目の要求書を会社側に提出。同盟罷業にはいたらなかったが争議は8月まで続いた。榊原は紙面全部を費やして工場側を批判し、工場長の森田丁也をして「あんたのようなムチャな人も珍しい」と言わしめた。左翼的な組合運動は衰退期にあったため、この争議では右翼団体の愛国皇民協会が仲介に入った。賃金3割値上げ、定期昇給の実施などの要求は容れられたものの、5名の工員が解雇された。 1940年(昭和15年)11月1日付で『岡崎朝報』は『新三河』を吸収し『三河新聞』に改称。同紙編集長に就任。1941年(昭和16年)12月13日に新聞事業令が公布され、一県一紙の国策により1942年(昭和17年)7月30日、『三河新聞』も廃刊となる。岡崎商工会議所から編纂を委嘱され、同年12月15日、『岡崎商工会議所五十年史』を刊行した。岡崎市長の菅野経三郎の紹介により日本ガラ紡糸統制会社に入社。1943年(昭和18年)暮、白紙動員の令書を受け、徴用工として名古屋市の軍需工場に移る。
※この「転向」の解説は、「榊原金之助」の解説の一部です。
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「転向」の例文・使い方・用例・文例
- 彼女はまずバイオリンから始め,後になってチェロへ転向した
- 彼女はロックからジャズに転向した
- 彼は40歳でエコノミストに転向した
- 彼は修正社会主義から保守主義に転向した。
- 彼女は転向した。
- 彼は社会主義から転向した。
- コンピューターの仕事から金融、会計などの仕事に転向することは可能である。
- 人を改宗[転向]させる.
- 彼は政治に転向した.
- 彼は会社を辞めて画家に転向した.
- 突然の予期せぬ転向
- 人生における突然の転機(エルサレムからダマスカスまでのクリスチャンの逮捕の路上での使徒パウロの突然の転向と似ている)
- 他の宗教や政治信念に転向した人
- 迫害を避けるためにキリスト教に転向したが、ひそかに彼らの宗教を実践し続けたユダヤ人を軽蔑する語
- 転向力という,運動する物体に現われる力
- 宗教や教えから転向者を開放するため激しい説得をするデプログラマーという役割
- 宗教や教えから転向者を開放させるため激しい説得に従事するデプログラマーという役割の人
- 多くの女子小学生が野球をするが,中学・高校に入るとソフトボールに転向する。
- 千春選手は,アテネに備えて48キロ級に転向した。
- 21歳でプロに転向してから, 10回ほどグランドスラムの予選を通過できませんでした。
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