テルミドール9日のクーデター
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テルミドール9日のクーデター (テルミドールここのかのクーデター、Coup d'état du 9 Thermidor) は、1794年7月27日(フランス革命暦II年テルミドール9日)に起きた、フランス革命を主導していたマクシミリアン・ロベスピエールが率いる山岳派(ジャコバン派)独裁に対立する勢力によるクーデターである。「テルミドール9日のクーデタ」、「テルミドールのクーデター」とも呼ばれ、フランス語版では「ロベスピエールの失脚」(La chute de Robespierre)」と呼ばれる
- 1 テルミドール9日のクーデターとは
- 2 テルミドール9日のクーデターの概要
- 3 背景
- 4 ジャコバン派の最後
- 5 7月28日に処刑された人物
- 6 脚注
テルミドールのクーデター
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「フランス革命」の記事における「テルミドールのクーデター」の解説
ロベスピエール派の山岳派議員はわずか10人ほどで、他の山岳派議員はロベスピエール打倒に回った。ロベスピエールはジャコバンクラブから反対派を排除し、組織固めをした。ロベスピエールの去った公安委員会は反革命容疑者の選別の厳格化をさせたり財産差し押さえを延期させた。ロベスピエールは議会で演説したが、大多数の議員に支持されなかった。 ロベスピエールは7月27日(テルミドール九日)にパリ・コミューンと同盟を結んだが、軍隊が集まらず、国民公会の軍隊に急襲されて逮捕された。7月28日、ロベスピエールら約100人が処刑された。1794年7月28日に国民公会の諸委員会の改選が行われ、8月25日に12の行政委員会に権力を分散した。この結果、平原派が力を持つようになりジロンド派の生き残りを復帰させた。ロベスピエール死後も恐怖政治の継続を主張した山岳派は排除され、恐怖政治は全廃された。株式市場と商業取引所の再開、処刑された者の財産も返還された。国債利子の支払い停止も撤回された。こうした政策によりブルジョアジーの財産は回復され、元通りの活動が再開された。11月22日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した。ちょうど「8月10日事件」以後の状態に戻り、ここでフランス革命は終わった。
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