プレリアール22日法
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プレリアール22日法(プレリアール22にちほう、仏: Loi du 22 prairial an II)は、革命期のフランスの法律。共和暦2年(西暦1794年)のプレリアール22日(6月10日)に制定されたことからこう呼ばれる。
プレリアール22日法については、これが国家の暴力を激化させ、「大恐怖政治」の端緒となったのか、この法律は公安・保安委員会の管轄下におかれていることから、革命裁判に対する委員会の統制を回復させるための手段だったのかで、歴史家の意見は分かれている。両者の共通認識としてあるのは、これらの委員会メンバーが事実上、立法権および執行権を行使した際、この法律が革命裁判に対する彼らの支配力を強化した点である[1]また、恐怖政治における臨時の特別処置という性格を払拭するとともに、民衆の政治的な介入を排除する意図があったともされる[2]。
プレリアールまたはプレリアルは、革命暦の草月であることから、草月法とも呼ばれる。
経緯
バラス、フレロン、カリエといった、派遣先となった地方で過酷な弾圧を行った者や無神論的な非キリスト教化運動を主導した者は呼び戻され、入れ替わりで公安委員会、特にロベスピエールとサン=ジュストに近い議員が地方に送られた。5月8日、公安委員会は県革命裁判所の廃止を再確認するとともに、地方の革命委員会(革命裁判所に相当する組織)を原則として廃止した。それまで地方が担当していた裁判のほとんどは以後パリの管轄となり、これによって公安委員会およびパリへの権力集中が目指された[3]。
この決定によりパリ革命裁判所の仕事が増えたため、その拡充と裁判の効率化・敏速化が求められた。そして公安委員会の委員であったジョルジュ・クートンが1人でこの法案を作成し、国民公会に提案したのである[4]。
内容
ここでは革命裁判所の役職者が定められ、被告とすべき「人民の敵」についてが定義される。当時、革命裁判所が裁く対象については複数の法律が存在したため、混乱が生じていた。そのため、改めて統一的な定義が行われたのだった。特定人物を革命裁判所に告訴する権限は国民公会、公安委員会、保安委員会、議員、国民公会の職員および革命裁判所の検事に限定され、いずれの場合も事前に公安・保安委員会の承認が必要とされた。これらは政府委員会による集権化および革命を再編するための一環だったと言える[5]。
裁判の迅速化のため、尋問は公開で行われるものとし、内密に行われていた予備尋問は原則として廃止された。物的な証拠で足りる場合には証人の喚問は行われないものとなった。有罪の場合、刑は死刑のみとし、また、「陰謀家」の裁判には弁護士が認められないとされた[6]。
ダントン派とエベール派の逮捕・処刑により、議員が政治活動の中で賄賂や横領を行うという犯罪もあることが明らかになっていた。反革命は必ずしも武器を取って共和国政府に逆らうといった、わかりやすい形をとっていないと周知されていたこともあり、「人民の敵」という定義は本来の意図に反し、曖昧で恣意的な解釈の余地を残すものとなった[2]。なお、法令における人民の敵とは、国民公会の評判を落とすか、もしくはこれを解散しようとした者。落胆を誘う言説を吹聴した者。世論を誤った方向に導こうとした者。革命の諸原理および共和国の諸原理の活力や純粋性を損なおうとした者と定められていた[7]。
「人民の敵」に対する裁判上の手続きは単純化された。革命裁判所へと出頭する被告は、この裁判所へと彼を差し向けた諸委員会のもとで事前に尋問されたはずと見倣された結果、もはや尋問されず、弁護士を呼ぶこともできなかった。しかし、非公式の弁護人に訴えることはできた[8]。
大恐怖政治
裁判手続きの簡素化や弁護人の廃止は、誤審や免罪に繋がる危険性を孕んでいた。提案を受けた国民公会では、エベール派とダントン派にまつわる事件を乗り切り力を増していた公安委員会による新たな弾圧の手段をこの法令に見出した議員も多く、議論は紛糾した。審議の延長を求める声も大きかったが、議長だったマクシミリアン・ロベスピエールの支持により、かなり強引な運びでその日のうちに採択された[2]。
この法令によって死刑判決は増加した。パリでは、革命裁判所が設置された1793年3月10日から1794年6月10日までの約1年2ヶ月間に1251名であるのに対して、1794年6月10日からロベスピエール失脚の1794年7月27日までの1ヶ月半の間に1376名である。フランス各地で見ると、プレリアール22日法の制定以降は実質的にはパリのみで革命裁判が行われていたため、パリでの処刑者は急増したが、全国的に見れば処刑の数は減っていた。それでも「大恐怖政治[9]」が語られたのは、パリでの処刑者が急増し連日陰惨な光景が繰り返されたこと。革命裁判所に対する公安委員会の監督権限が増し、裁判手続きも簡略化され、ロベスピエールが反対派を排除する手段として革命裁判所を利用しやすくしたように思われたことが挙げられる[10]。
この法令は訴訟手続きを迅速にし、暴力の露骨な特性をより有効に利用するものだった。以前から存在した諸法文のなかで示されていた告訴の道徳的側面を強調して、政治的な諸対立が重罪と認定されることを容易にした。だが同時に、不確かな組織から知識もないまま反革命とされた人々を無罪とするものでもあった。統一的な定義が行われたことは[8]、1793年3月19日に定められた武器を持ったり白い徽章をつけたりしている者は逮捕し、24時間以内に死刑に処すとした法[11]のような存在の、強引な施行を制限した[8]。
1794年6月以降、革命裁判所に送致される人物のリストを作る命令に対し、ロベスピエール、サン=ジュスト、クートンの署名は滅多になされていない[12]。一方でマルク=ギヨーム・アレクシス・ヴァディエ(フランス語wiki)は、 彼の個人的な敵を複数人、直接革命裁判所へと送り、判決を下させている。次いで7月9日、今度は反革命的行動を疑われていた農民たちを暫定的に釈放させた。前者では、ヴァデイエは一部の人々について、事例が諸委員会によって吟味されることを待たずに処刑した。後者では、彼は、寛大な態度を取りつつ、プレリアール22日法の危険性について指摘した。ヴァディエは、犯意と事実との区別を主張し、告発されている諸事実は軽微なものだと述べて議会を説得し、プレリアール22日の法による告訴を、彼らから免除するようにと主張したのである。 6月17日には、54人の受刑者たちが、フーキエ・タンヴイルの命令のもと、親殺しに科される罰を想起させる赤いシャツをまとわされ、処刑台へと送られた。つづく数週間のあいだに、250人以上の人々がギロチンにかけられている。こうしてロベスピエールとクートンの権威は失墜していった。そしてフリュールスの戦いにおける勝利などによって、革命が国境・国内において安定したように思われたときから、世論は死刑の加速を、ロベスピエールやクートンと結びつけるようになった [8]。
国民公会では、地方から召喚された派遣議員たちなどが、粛清される不安に駆られていた。そこでロベスピエール派を打ち倒されるべき陰謀とする計画が進行し、そこに恐怖政治を終わらせ本来あるべき体制に戻りたい議員たちが加わる。こうして7月27日、テルミドールのクーデターが勃発し、ロベスピエールが失脚。クートンらと共に処刑された[13]。新しく権力を手にしたテルミドール派の一員だったベルトラン・バレール(フランス語wiki)は、恐怖政治の行き過ぎを認め、その責任をロベスピエールとプレリアール22日法に求めた。結果、同年8月1日を以って正式にプレリアール22日法は廃止された[14]。
関連項目
外部リンク
- 原文 sur Gallica
- 10 juin 1794, la Grande Terreur, sur herodote.net
脚注
- ↑ マルタン2024、P.364
- 1 2 3 山﨑2018、P.213
- ↑ 山﨑2018、P.208
- ↑ 山﨑2018、P.212
- ↑ 山﨑2018、P.212-213
- ↑ クートンが議会にて説明したところによれば、これはダントン派の裁判では反省からきたものだった。ダントンの法廷にて、その雄弁によって審理が長引き、これは革命裁判所や公安委員会を悩ませたことから、弁護士に黒を白と言いくるめられるのを防ぐ目的があった。また、弁護士が依頼人を恐喝して法外な弁護料を要求する例も生じていたため、それを避ける必要もあった
- ↑ マクフィー2022、P.351
- 1 2 3 4 マルタン「フランス革命の恐怖政治を読み直す」
- ↑ 大恐怖政治という呼び名は当時使われてはいなかった
- ↑ 山﨑2018、P.214-215
- ↑ 山﨑2018、P.157
- ↑ マルタン2024、P.376
- ↑ 山﨑2018、P.220-222
- ↑ 山﨑2018、P.225
文献リスト
- 山崎耕一『フランス革命 「共和国」の誕生』、刀水書房、2018年9月、ISBN 978-4887084438。
- ピーター・マクフィー(英語版) 著、高橋暁生 訳『ロベスピエール』白水社、2017年、ISBN 978-4-560-09895-0。
- ジャン=クレマン・マルタン(フランス語版)『ロベスピエール 創られた怪物』法政大学出版局、2024年、ISBN 978-4588011733。
- ジャン=クレマン・マルタン 著、山岸拓郎 訳「フランス革命の恐怖政治を読み直す」、2006年3月
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