派遣議員
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派遣議員[注釈 1][1](はけんぎいん, 仏: Représentants du peuple en mission, 英: Representative on mission)とは、フランス革命の1792年から1795年にかけて、フランス革命戦争において危機に陥った国民公会が、地方および軍隊に派遣した全権代表である。派遣議員制度は4つの法令によって成立し、最初の法令あるいは制度化以前の議会代表は、コミッサールという言葉で呼ばれていたため、派遣委員(仏: Commissaires en mission)とも言う。
注釈
- ^ 河野健二の『資料フランス革命』の中では、(法案訳の部分で)より直訳調の「人民代表者」という訳語があてられているが、一般に"Représentants du peuple"は国民公会議員をさし、そう訳される歴史用語であるため、ここでは他の出典にも多い派遣議員とする。
- ^ 平原派やテルミドール後に過激な論調を引っ込めた転向者など。後述するように、当初の派遣議員は山岳派のなかでも戦闘分子が多く選ばれ、厳しく反革命の芽を摘ませようとした
- ^ 元外相で北方軍司令官でオルレアニストでもあった彼が、国王処刑を革命の行き過ぎと判断して、パリに進撃してジャコバン派を一掃して王権を回復する陰謀を企てた事件。1793年4月2日に発覚した。このとき戦争大臣と4名の国民公会議員が軍に同行していたが、逮捕されてオーストリア軍に引き渡された。
- ^ 臨時行政会議が派遣した委員で、大臣に報告義務を持つ。フランス政治において大臣という地位はアンシャン・レジーム側(つまり特権的立場)のものという固定観念があったので、大臣とその手先は人民の代表(議員)が監視すべき対象だった
- ^ 第1期公安委員会の委員で、第2期からは財政委員会の専属になって外れた
- ^ 軍隊ではない、準軍事組織で、都市部に農村から食糧を計画的に供給するために徴発や輸送などを主な任務としたが、警察権を保持しており、反革命容疑者の逮捕なども行った。ただし各県によって役割が異なり、活動の過激度もまちまちで、農家から食糧を奪い、商家から金品を盗むような集団もあれば、逆に農家の都市への出荷を警護して円滑に供給を行おうとした集団もあった。
- ^ a b 鎖や縄に繋いだ(女子供を含む)囚人を満載した船をそのまま川に沈めて溺死させるもの
- ^ ジャコバン・クラブは会費が高い人民結社であったので、このクラブの会員であるということは少なくとも中流以上のブルジョワジーであったことを意味している。クラブもコミューンも幹部はしっかりした生業をもつ人物がほとんどであった
- ^ サン・キュロットは一般に貧民と誤解されることがあるが、貧富の差によって分かれた社会階層をさした言葉ではなく、特定の政治的思想によって分かれた社会階層をさすので、必ずしも貧民を意味しない
- ^ 靴は一日中歩いて行軍する兵士にとって必要不可欠な物資で、寝台は野戦病院に必要とされる備品
- ^ 後にケレルマンには逮捕命令で一時更迭され、以後は軍司令官は次々目まぐるしく替わった。リヨン市が攻略された段階ではドッペ将軍が指揮していた。元は医者であったドッペも無能な人物であったが、彼はフランスに併合を求めるサヴォア人代表で、拡張主義が支配的のフランスでは政治家に厚く庇護されていた
- ^ ヴァレンヌ事件当時は宿駅長で、ルイ16世の逮捕に貢献して国民公会議員になった人物。
- ^ 国王弑逆者である国民公会議員は、概して、外国軍に捕まれば処刑されると考えていたので、捕虜になることを恐れた
- ^ 回顧録は基本的に自慢や宣伝、自己弁解のために書かれるので、実際にバラスが書かれたように行動したかは不明
- ^ 派遣議員たちは概して臆病者で決して前線には立たなかったという反対の話もある
- ^ エベール派の政治家。エベール派は戦争省に多くの人脈を持ち、軍事行政を牛耳る立場にあった。
- ^ 古代ローマの歴史を参考にしたもので、「共和国」が滅びる原因を軍隊の台頭と分析し、関連の演説がある
- ^ ただしほとんどの将軍は恐怖政治期に山岳派に逆らうということを敢えてしなかったので、実際に実行されたのは後述のオッシュの例だけである
- ^ 公安委員で派遣議員になったのはカルノーなどもそうで、「勝利の組織者」として後方での軍行政では評価されているが、カルノーも前線での活動にはあまり評判がよくなかった。それは結局のところ派遣議員制度が指揮官の特権を侵す存在であったからである。ナポレオンは指揮の統一を最も重要なものと位置づけ、その分割は常に拒んだ
- ^ 後の元帥であるブリュヌは、このとき王党派容疑で裁判にかけられたが、ダントンの弁護によって助かった
- ^ マルセイユ商人であったデジレ・クラリーの兄も同様の革命税目当てで囚われたが、それを救ったのがサリチェッティの秘書をしていたジョゼフ・ボナパルトで、二人は後日、婚約した
- ^ バラスとフレロンは、マルセイユとトゥーロンで鎮圧後に身代金目的の逮捕や大量殺戮を行った。特に殺戮ついては王党派かどうかを調べずに、そこの住民であるという理由での処刑を多く行って批判をうけた
出典
- ^ 参考文献以外の訳例出典:恒川邦夫; 吉田城; 牛場暁夫, eds. (1985), 『ロワイヤル和仏中辞典』, 旺文社)
- ^ Scott, Rothaus & 1985年, pp.811-812
- ^ a b c 猪木正道 & 前川貞次郎 1957, pp.166 - 170
- ^ 井上 1972, p.174
- ^ LEFEBVRE, Georges (1950). La Révolution française. La Convention. Tomes 1 et 2.
- ^ 小林 1969, pp.345 - 349
- ^ a b Phipps 1928, pp.18 -29
- ^ 専修大学人文科学研究所 1998, p.40
- ^ a b (Antoine Merlin de Thionville)
- ^ Blanning 1996, p.126
- ^ Blanning 1996, p.111
- ^ 小林 1969, pp.373, 395 458-459
- ^ ブルトン, 岡本 & 高木 1995, pp.388-391
- ^ 小林 1969, p.345
- ^ ブルトン, 岡本 & 高木 1995, p.394
- ^ ブルトン, 岡本 & 高木 1995, pp.402-405
派遣議員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 20:35 UTC 版)
派遣議員は、1792年の3月から5月の間に制度化され、国民公会の権力代行者として地方や軍隊に派遣されて、無制限の絶大な権限を振るった。彼らの第一の任務は、県行政を国民公会の決定に従わせることと、軍の将軍たちを監視することで、そして30万人募兵令や総動員法の成立後は、物資調達や後方支援など全般が加わった。国民公会の名のもとに恐怖政治を実行したのは彼らであった。派遣議員は当初は国民公会に従属していたが、公安委員会の台頭後は、同委員会の統制を受けるようになった。 詳細は「派遣議員」を参照 一方で、国民公会は、派遣議員の数が増える度に出席する議員の数が減り、議会としての活動は次第に形骸化していった。ジロンド派がまだ議席を持っていた内には激しい論議もあったが、彼らが追放されて山岳派独裁が成立すると重要な法案もほとんどは諸常任委員会のメンバーだけで別室で討論が行われ、国民公会に提出された時には完成した法案となっていることが多くなった。国民公会は、議員達が数日程度の説明を受けて議決する、承認機関のようになり、特定の方針に異議がある場合は、議決動議がある前に、公会ではなく、ジャコバン・クラブや新聞で世論に訴えることが必要で、すでに流れができて、提出されてしまった法案を覆すのは、例えロベスピエールのような政治家であっても困難であった。国民公会ではほぼ毎日、数十の法案を可決していたので、すべてを把握することすら困難で、派遣議員で出席者が減ると、左派議員が議場に居ない間に、右派の議案がこっそり通されたというようなことすらあった。
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